2006年09月18日
ブログ整理/読売新聞閲覧制限事件・その3
うっかり自分でキリ番3000踏んじゃったのが悔しくて,カウンターを改造する。IPアドレスが同一のアクセスは一定時間計上しないタイプ。IIBで使ってるのの流用。
これをつけるついでで,MTのテンプレをいろいろいじる。せっかくPHPで出力させてるのでサイドバーを分離させたりとか。久しぶりにいじったので,せっかくだから著作権延長反対のロゴをつけたり。
あとエントリのカテゴリーに図書館ってのを追加しました。最近図書館関係の記事が多かったので。これにあわせて過去記事で図書館がらみの奴をチェックしてたら,改めて自分の書いた文章に感心したり(自画自賛)。
このへんのなんて,いま読み直してもいい感じ。たぶん図書館や著作権に関する自分の考えをそれぞれ述べてる。
この頃はブログを書くこと自体にけっこう熱心だったんだなあ。いまははてブやらネット書店の検索やら同人誌図書館やらにかかわったせいで,IIBあたりは全然手を入れてません。そろそろ再開したいけど書きたいこともたくさんだあ。
で,閑話休題。
とりあえず書いちゃわないといけないこととして,前回言ってた閲覧制限事件に対する自分の意見。わざわざ先延ばしにするほどたいしたことじゃないんですけどね。
実は自分,今回の事件を最初はあんまり重要事と受け止めてませんでした。読売にについては,本当に記事を閲覧できない状態(カウンター内別置でなく)にしてた館は少ししかないことが早々にわかりましたし。
カウンター内別置については,自分はありだと考えています。個人のプライバシーが掲載されているのは事実であったし,回収命令が出る可能性も皆無ではなかった。慎重な対応という意味ではありだったと思う。そもそも別置しただけで利用できなかったわけではないんだし(資料と接触する機会を奪ったわけではない)。
紙面に付箋などを貼った問題の館の対応は,図書館の自由だけでなく資料の保存上も適当ではないでしょう。まあ市立でも支部館であれば保存図書館としての機能は薄いのでありかもしれませんが,県立と各市の中央図書館はあきらかにおかしい。
加えて,週刊新潮の「袋綴」はひどいと感じました。これは読売でも紙貼り等をしてる館のほか,伊賀市と津市と世田谷区の三館で行われています。明白に閲覧の機会を奪っているし,資料の保存上の問題もある。また福岡県立の対応に至っては弁解の余地がありません。ひとつの記事を理由に意図的に雑誌の欠号を作るなんて何考えてるんだか。
以上のように感じたのですが,それはそれとして,自分は実はこうした状況は公共図書館界において「良いこと」なのではないか,と考えていました。
確かに,閲覧制限を行うのはよいことではないんです。公共図書館の本義として間違っている。しかしながら,まったくはじめての問題について,すべての図書館がまったく同じ対応をとる,というのはちょっと怖い気がしていた。
実際その後の言及においても,読売のやり方については批判的な意見が多い。日弁連は明解に少年法の例外であることを否定している。読売のあれが,社会通念上もグレーなものであることは間違いない。無論その判断を図書館がしていいはずはない。しかしながら「すべての図書館がそうでなければいけない」という言説は,たとえ正しくても,気味の悪いものを含んでいる気がするんですね。
(実際,少数ですが閲覧制限をした図書館を賞賛してるブログもあるんです。まるで益のないことはない)
むしろ今回の事件でさまざまな対応が現われたことは,公共図書館の多様性が高いということを確認する上で良い傾向だったのではないか。そんなことも考えるのですね。たとえ図書館の理念上,閲覧制限しないことが唯一の回答であると明白であるとしても,「そうであるべき」という規範はしばしば危ういものを持ちます。特に今回は前例のない事態だった。ちょっとした勇み足を踏むくらいのことは,確かに良いことではないが,それほど目くじらを立てるほどのことではないんじゃないか。むしろさまざまな図書館のあるということで守れる図書館の理念もあるのではないか。またその上で,ほとんどの図書館において閲覧制限が行われなかったという事実。これをこそ評価するべきだったのではないか。
そのようなことを「考えていました」。
違和感をもったのは三つ。
カウンター内別置でなく,週刊新潮の「袋綴」や読売新聞の閲覧制限を行った館が,関西地方に偏っているという点(表参照)。
そのうちの豊中市についての住民からの意見(前回のエントリであげました)。
そして,香芝市が依然としてこの件に関して閲覧制限を加えてるという事実。
特に最後のは,広告に対する検閲というかなり珍しい事例になるのではないでしょうか。もし香芝市立図書館で週刊ポストをとってるとしたら,たぶんその記事も袋綴じにするのでしょう。確かに初心は守ってる。図書館の多様性を考えれば,世論などに惑わされず,自館の意志を貫く姿勢は評価すべきなのかもしれない。しかしなんとなく「気持ち悪い」。
地域性やこの執拗さは,単純に見解の相違,という点を超えているような印象があります。むしろ図書館の理想とか少年法などとは別の,何らかの信念であるとか圧力であるとかの影響を感じる。
図書館が利用者の心情や法令の遵守などを考えて閲覧制限などを行うとしたら,これは誤解であっても,悪意ではない(カウンター内別置で対応した館はこれだと思う)。けれど,図書館が職員独自の意志や関連団体の利益を考えてそれを行うのだとしたら,これは明白な検閲です。
もしかしたらこれは考えすぎなのかもしれない。神戸の事件があり,関西ではこの問題について極端に反応してしまうというだけなのかもしれない。ただ,多様性などという言葉で安易に片づけられないものが隠れてるような,そんな気がいまはしています。
三重県立や香芝市,豊中市において何があったのか。その解明が待たれます。それほど遠くではないでしょう。読売や写真週刊誌等にはそれをするだけの動機が十分にあるでしょうから。
投稿者 Myrmecoleon : 01:03 | コメント (257) | トラックバック
2006年09月02日
AjaxなISBN横断検索
前回紹介したTOLLE ET LEGEさんの ISBN検索に触発されて,こんなのを作ってみる。
とりあえず,現在6店+1のデータを表示できるようにしたが,かなり高速で表示できてると思う。
検索結果はキャッシュしてるので,一度検索したデータは瞬時に表示。その代わり,最新の情報でない(在庫冊数とか)場合があり。一応キャッシュデータは3日たったら交換するように設定してる。
操作は単純。フォームにISBNを入力すればいいだけ。入力してから別の場所をクリックすれば,自動的に検索されて各書店の所蔵が表示されます。
GETでの受信に対応してるので(前述のISBN検索は非対応だった)URLにISBNを追加するだけで簡単に検索可能。たとえばこんな感じ。
(いじってると途中で図書館内乱がAmazonに入ったのを見つけたが,こっちはあんまりいい例じゃないですねw)
対応するBookmarkletなんかも用意してあるので,気になった本を見つけたらどこのネット書店で買えるかを確認するのも簡単。とりあえずβなんで突然使えなくなるかもしれませんが(著作権とか普通にやばいし)興味あったら使ってみてください。
いちおう,目標とするのは以前も書いたとおり,図書館の蔵書やネットの書評をまとめて検索,表示できるようなもの。でもこれだけでもそれなりに使えますね。
いまはとりあえずサイト毎で表示させてますが,これだとわりと手狭いので,今後は項目別にまとめる形式にしようかなと考え中。たとえば,各書店の入手条件だけを並べるとか。
(LibraryThingみたいに値段一覧みたいのを表示させられると面白いかと思ったものの,よく考えると日本は再販制なので価格差ないんよねー)
これに加えて,Bookmarklet ページのサイトもかなり追加。Google のブック検索とか。あと知らないネット書店がいくつかありました。
投稿者 Myrmecoleon : 20:51 | コメント (3) | トラックバック
2006年08月25日
ISBN検索
この頃,ISBNをキーにネット書店と図書館と書評をつないだサービスができないか,というのをつらつら考えてる。
まあ誰でも思いつくアイディアだよな,と思いつつネットをうろついてると,けっこういろいろ見つかるものですね。
TOLLE ET LEGEさんの ISBN検索
ISBNをもとにネット書店の横断検索。ISBNを入力して検索すると,Amazon・楽天・bk1・7&Yなんかから書影や書誌,価格や入手条件(品切れ等)をざざっと表示してくれる。どこでならその本が買えるのかを調べるのは便利。
ただ,やっぱちょっと重い。これはネット書店側のサーバの重さが影響してると思うが,Ajaxな感じで終了した検索結果から表示させていけば,もう少し体感時間が短くできそうだなー,とか。
こちらのサイトさんは書評や新刊のRSS配信などもやっており,もう少し詳しくチェックしてみたい感じ。
Akira さんの ISBNDB
国会図書館,Amazon,Books などのサイトからISBNをキーに書誌データを拾ってきて,整理してデータベースとして管理するサイト。データは私本管理Plusで利用可能。
NDL-OPACから書誌データを取るのは以前に断念した経験があり(あそこはセッション管理していて通常のGETやPOSTでは取得不能)どうやってるのかなーとみたら,fsockopenでクッキーを拾ってセッションID取得しているらしい。なるほど,セッション管理系のOPACはこれでいけるのか。
まだちゃんと試してないけれど,国会図書館からもデータ取得できるというのはナイス。
ISBNdb.com
アメリカの大手図書検索サービス。ISBNを入れるとその本の書誌やら利用できるネット書店や図書館やらが表示される。日本の本はたいがいNG。どこならいくら,というのが(中古含めて)確認できる。どうやったんだろうなー,これ。せめてコレの日本版が欲しいよね。
まあ最近はこういうのを見つけたらとりあえずBookmarkletを作るということで(マテ
管理者さんの許諾等は当然のようにいただいてませんので,見かけて「やめやがれクソ野郎」とか思ったらメールくらはい。
追記:
■[図書館]ISBNコードにハイフンをつけたり、とったりして蔵書検索システムへ投げるサイトの実験
先日の natu_n さんところではISBNにハイフンを入れて地域の図書館の所蔵を検索できるようにするページを作られてますねー。JavaScriptだけで大変そうだなーと眺めております(自分は主としてPHPを使用)。
AmazonのAPIも導入された模様。奇遇ですが自分も先日そのへんをいじっておりました。検索結果の出るのが馬鹿早いのがナイス。書評も手に入るみたいですし。
上記したサービスなんかもそうだけど,なんかうかうかしてると,やろうとしてたことなんてどんどん実現されちゃいそうだわ。いや,それがいちばんラクでいいんですけどね。
投稿者 Myrmecoleon : 12:40 | コメント (254) | トラックバック
2006年08月22日
Bookmarklet修正。
つらつら調べてたらもう少しスクリプトを短縮できることを発見してBookmarkletを修正。具体的には,
if( ほにゃららA ){}else if( ほにゃららB ){}else if( ほにゃららC ){}
みたいなかたちで場合分けをさせてたのを,
ほにゃららA | ほにゃららB | ほにゃららC ; ("|"はORと同義)
という感じで処理。これでもまったく同じ動作をするらしい。まるっきり同じではないのか。むう。
(プログラム分かる人なら当然の書き方なのだろうけど;)
Bookmarkletは文字数制限のある関係で,スクリプトの書き方に試行錯誤が必要であったりする。そのため,普通なら気にしないような短縮作業が必要になるのですね。
これにより,字数制限がネックで使えなかったサイトでも利用可能に。まあ以前の仕様でも検出精度を落とせば字数は減らせたんですけどね。
ということで,昨日トラックバックしたid:natu_nさんの奴を手直ししてみる。なんでも字数制限でSleipnirで使えないとのことなので,字数圧縮すれば可用性があがるはず。
■[Amazon][図書館][Firefox]今日はFirefox関連を少々
修正前 id:natu_n さん作
↓
修正後(少し挙動がおかしかったので,8/23 21:10 修正)
具体的に何をやったかというと,
- GETで送ってるよけいな変数を動作に問題のない範囲で減らす(少しだけあったがほとんど減らず)
- ISBN検出スクリプトを上記の圧縮版に変更。
- URL中で複数回出現する文字列を変数で置換(やりすぎると逆に増えるので注意)
といったところ。これにより字数が 559 → 499500 になりまった。ちゃんとSleipnirでも動きますね。
同じノリでほかの図書館のも圧縮可能なハズ。ただし,ハイフン付与はBookmarkletのみじゃ根本的に不可能だと思います。間にCGIかなんか通すのがスマートかな。
投稿者 Myrmecoleon : 23:32 | コメント (645) | トラックバック
2006年08月21日
帰省とブックマークレット追加。
帰省から帰ってサーバを立ち上げたものの,まるでブログを更新しないダメ管理者であります。
以前のページでつくってたISBNからネット書店や書評,図書館検索をおこなうBookmarklet関係を以下のページにまとめ。
ブクログが入ってないのに気づいて追加。ついでにぶらぶらしてたらLibraryThingというアメリカの大手本読み系SNSを発見(てか聞いたことあったはずなのに現物みてなかった)したので,そこ用のとかも作成してみる。
ぷらぷらしてたらこんなことしてる方も発見。
[Bookmarklet]ISBNコード、書名、著者名でいわき市立図書館の蔵書を検索する
いわき市立図書館の本を検索するBookmarklet。Scriptを読むに,選択した文字列を検索クエリにほうりこむタイプですな(自分が作ってるのは,ページからISBNを探し出して読みに行くタイプ)。この方はむしろFirefoxのGreasemonkeyやSleipnir2のSeahorseでその本が図書館にあるかを表示する奴(以前にCOULDで紹介してたののカスタム版)を主に作っている様子。なかなか興味深いですね。
[Amazon][図書館][Greasemonkey][seahorse]Amazon検索といわき市立図書館連携スクリプト
(なんかISBNへのハイフン付けに苦労したとか。自分は http://pukiwiki.ishinao.net/?K.M. のを参考に正規表現でぐりぐり,というのを作ったりしてましたっけ。日本で出版されてるものならこれの応用で十分)
この方は Amazon以外でも使いたいということからBookmarkletも試作されたとのこと。
自分もCOULDのアレは知っていて,しかもFirefox使いなのだけれど,未だにGreasemonkeyは入れてなかったり。なんというかですね,たとえ便利でもソフトウェアへの依存性が高いのはどうなのかなと。その点で大半のブラウザで利用可能なBookmarkletは便利だなーと。
ただ,どうしてもBookmarkletは字数制限が厳しいし(実は近所の大学図書館用Bookmarkletとか出来てるのですが,かなり曲芸的なことをして対応してます)そもそも一覧性に劣るのが難点。その点でさいきんは一種の横断検索サイトみたいのを制作中。それもKnezonのアイディアを盗んで,ISBN一発から書評・図書館蔵書・ネット書店の価格を同時に一覧できるような奴。こいつ用のISBNのBookmarkletも作って,パっと見た本がどう評価されてどこで読めるかがあっさり分かるようなのを考えてたり。しかもAjaxで重さを感じさせないつくりでと。
技術的にはそれほど難しくはないと思うのだけれど(公にやると許可とるのが大変そうだが;)さてさて。
しかしこことか見てて思うのは,ISBNで検索できるかどうか,ハイフンなし対応かハイフンありのみ対応か,といったOPACの機能差がここに来て非常に可用性に影響するということ。まあハイフンありのみ対応のとことかは,ハイフンなし→ハイフンありにするCGIかなんかをかませれば対応できないこともないんだけど,そもそもISBNで検索できないところは書名とかであたるしかないんだよねぇ(たとえばうちの県立図書館はISBN検索できません;)。司書的にはISBNで検索できない蔵書システムなんて腐ってると思うんだが,そのへんのセンスの差がそろそろ問題になってくる頃かも。
投稿者 Myrmecoleon : 22:47 | コメント (270) | トラックバック
2006年07月30日
ブックマークレット2
前回のISBN検索ブックマークレットを追加。抽出メカニズムも改良。
Webcat関係についてはNCIDでも検索可能にしてあります。ただ,図書館系は正直どこをいれたらいいのか難しいので(NDL-OPACとゆにかねっとは仕様上難しい)書店と書評を多めに。
大学図書館はわりと対応可能。逆に県立図書館などではISBN検索に対応してないところが多い様子。
なにかリクエストあればお作りしますよー。
書評 図書館系 | ブログ検索ほか
ISBNをGoogleで検索 | ネット書店 |
(2006/07/30 本棚.orgの検索が重いようなので,負担軽減&高速化のためにGoogle経由の検索も用意しました。最新情報ではないですが,こちらの方が早いです)
投稿者 Myrmecoleon : 12:21 | コメント (2) | トラックバック
2006年06月13日
シヴァの女王
蔀 勇造『シェバの女王 伝説の変容と歴史との交錯』(山川出版社, 2006)
ファイナルファンタジーの召喚獣は他のファンタジーモノと比較すると少し浮いたところがある。たとえばカトブレパスやレモラなんてマイナーどころが出てくるとか思えば,バハムートをドラゴンにしてみたりオーディンにルパンの五右衛門ばりの残鉄剣を振るわせてみたりする(どちらも完全にオリジナル設定)。レギュラーの三召喚獣にしても,イフリートあたりは一般的なファンタジー物のイメージまんまだったりするが(これも原点とは大きく違うがFFに限った話ではないので情状酌量の余地あり),ラムウは元ネタが本当にこれだとするとあまりにトンデモな話。
完全にオリジナルならわかりやすいのだけど,下手に神話伝説の神々や英雄をもじってるだけにまったくネタに尽きない。
こういう良く言えば個性的,悪く言えば悪ノリしすぎなFFの召喚獣たちでも,特にややこしいのがレギュラー三匹の最後の一人,氷の女王シヴァである。名前でいえばインドのシヴァだが,シヴァは男性神であるし氷との関係はほとんどない(嵐の神でもあるので,まだ雷や炎のが関係深い)。イメージとしてはヨーロッパの民話などに見える冬の女王なのだが,もちろんシヴァなんて名前のはいない(はず)。
そのあたりで名のあがるのがシバの女王である。日本では知名度が薄いが,ヨーロッパでは「シバの女王の国」というだけでイエメン展が大盛況になるくらいの人気らしい。旧約聖書にはユダヤの王ソロモンのもとを訪れ,彼の知恵を認めて贈り物を贈ったとだけしか書いてないのだが,ユダヤやイスラムやキリスト教の想像力豊かな方々のおかげで「終末に神の国が来た暁には,キリストの妃として神の国を治める」とまで言われるスーパーヒロインである。
この女王が召喚獣のシヴァの元ネタ第一候補であるわけだが,実はあんまり強い根拠があるわけじゃない。まぁ女王なのはいいとして,氷については,聖書ではなくコーランやユダヤの伝承(想像ふくらませちゃった部分)にある,彼女がソロモン王に謁見するさいに水晶の床の上を歩いたという箇所を「水晶≒氷」と読み取るしかなかったり。やはり根拠薄弱かもなーと思わないでもない。
(おそらく発想の元としては,ナルニア国物語の冬の女王みたいなのとシバの女王を合体させたんでないかなと想像してる)
まあこういう微妙な根拠であるものの,この召喚獣シヴァの元ネタらしいシバの女王が世界各地でどのように認知されてきたかを研究したのが『シェバの女王 伝説の変容と歴史との交錯』である。さすがにFFの話はでてこないものの,エチオピアではシバの女王とソロモンの子が建国神話の王になってるとか,さらにはそれをネタ元にエチオピア王をメシア扱いする運動が南米で激化してたとか(ボブ・マーリィなどが有名なラスタファリズムという運動),おまけにエチオピア側ではそんな運動しらんのでエチオピア王が訪問したときは大盛況で混乱したとかいう話は正直笑わずにはいられません。
まあ実際のところシバの女王という人物が実在したのか,シバの国はどこなのかなんてのも意外にわかってないらしく,もともと何が起きたのかは分からないらしい。それでもユダヤ・イスラム・キリスト,ヨーロッパ・アラビア・アフリカ・南米と,世界中のあちこちで伝説が一人歩きしてるさまは,まったく伝承というものの面白さを感じます。
まったく,紀元前にイスラエルあたりであったかもしれないちょっとした出来事が,原型残さず改変されてファミコンの画面で踊ってるさまを見ると,世の中なんでもありだなあと思うモノであります。はい。
投稿者 Myrmecoleon : 22:40 | コメント (177) | トラックバック
2006年01月09日
書物の価値の測り方
オーウェン・ギンガリッチ著
『誰も読まなかったコペルニクス 科学革命をもたらした本をめぐる書誌学的冒険』 (早川書房,2005.09)
大学の生協にてしばらく前に購入。しばらくかけて,やっと本日読了。
コペルニクスが地動説と呼ばれる学説について述べた『回転について』がどのように“読まれて”いたかを知るために,著者は約30年をかけてこの著作の現存する(orした)初版・第二版のほぼすべてを調査した。その道程を読み物風に書いたものの邦訳。
自分は知らなかったけれど,はっきりいってとんでもないことしてたんだなあ,という感想。
まだまだOPACだのは整備されていなかった時代。世界中の図書館の目録をあさり,無数の書籍商に問い合わせ,知人の研究者の噂を聞きつけ,それで現物を見に行ったら別物だったりする,そんな有り様w それでも地道な調査の結果,ティコ・ブラーエに冠されていたいくつかの発見が無名の天文学者がコペルニクス本に書いたメモのパクリだったとか,ケプラーとお師匠がコペルニクスの仮説について議論してたとか,さまざまな科学史的発見がなされていく。読んでいてなかなか興奮します。
天文学,科学史,および書誌学あたりに興味のある方には普通に面白いのでオススメ。また,本というものがかつてどう読まれていたのか,メディア論的な読みにも向いてるかと思う。本の書き込みがあちこちに伝達されて,ついにはさまざまな著作を生んでるあたりなんかは,ミーム論とか外山滋比古センセの論説なんかとも絡む感じで面白い。人によっては,コペルニクス本さえ旅先のメモ帳扱いだったというのも面白い。
個人的には,コペルニクスの時代は本というのは単に複数枚の紙を出版するだけで,装丁だのは買った人それぞれが業者を雇ってやらせていた,ってのに驚いた。あの時代の本は,同じ著作であっても,一つとして同じ装丁の本はなかったらしい。装丁の模様なんかで誰の所有だったかわかるとかなんとか。
本のデジタル化が進んで,むしろ紙の図書は金持ちの道楽になりつつある昨今,もしかしたら未来の図書もこういうふうになっていくのかも。それこそ中身はデジタルデータからオンデマンド印刷で,それを装丁業者にまわして,「おれの涼宮ハルヒは革装だぜー」「うちのなんか金箔よー」みたいな。そういや革装版『空の境界』とかあったなあ・・・・・・。
投稿者 Myrmecoleon : 20:35 | コメント (159) | トラックバック
2005年11月11日
予告のアレ。
期間もたったのでいいかげん書いてみる。予告してたアレ。
ゲーム「Fate / hollow ataraxia」をプレイ後,久方ぶりに思い出した疑問。
それは端的にまとめるなら,
「自分を自分だと思っているこの自分は,決して自分ではありえない」ということ。
わけわからんでしょう。説明します。
デカルトいわく「われ思うゆえにわれあり(Cogito, ergo sum)」。
どれだけ物事を疑っても,疑うという行為そのものに主体が必要なため,自己の存在は疑えない,という説明。
でもこれを,ちょっとおかしいな,と思ったのがそもそものはじまりだった。
小説を熱中して読んでいるとき,あるいは映画やゲームでもかまわない。
何かに夢中になっているとき,
自分が自分ではなく,小説や映画の主人公になっているような気になったことはないだろうか。
島本和彦は「インサイド」とか言ったが,いわゆる感情移入という奴。
おかしいと思ったのは,「われ思う」がこれでないとは言い切れない,ということを思いついたから。
「われ思うゆえにわれあり」。そう思考する自分が実は,
単に『わたしは「われ思うゆえにわれあり」と考えている』という文章を読んでいる読者でしかないかもしれない。
そんな妄想。
この在り方が在りうるのなら,「自分」は思考する主体である必要さえない。
むしろ思考や感情をもつようでは嘘が生まれる。
ただ純粋に,情報を観測するだけの自分,「観測する自己」。
その存在だけがただ一つ,疑い得ないものではないか。
まぁ,「すべては自分が考えているのではない」という仮定は非常にとんでもないものだが,
そういうところはあまり気にならないタチであるので,この思いつきはなかなか気に入っていたのを覚えている。
ただ,何か気に掛かることがあるような気がしていて,それがわからないのが少し気持ち悪かった。
それに気づいたのは,hollowプレイ後それを思い出した翌日。
つらつらつらと,考えてみた。
自分は本当は自分が思考しているという夢を見ているだけだという可能性を考えてみた。
そしてふと「あれ,自分てどっちだ?」という疑問に思い至って,はっきりとわかった。
「観測する自己」の仮定では,自分をそういう存在であると考えているのは,
「自分」ではなく,「自分」が観測している「何か」でしかない。
だが,この「何か」はまちがいなく自分が「自分」であると思って考えている。
しかしこの「何か」が自分だと思って考えている「自分」は,
「何か」ではなく,「観測する自己」である「自分」の方だ。
わかりづらいので,
「観測する自己」を読者,思考している「何か」を物語の主人公にたとえてみよう。
読者は最初,物語の主人公を自分であると思って読み進める。
しかし途中でこの主人公は疑問に思うのだ。
「本当の自分は,この物語を読んでいる読者なのではないか」と。
重要なのは,この疑問は本当の読者ではなく,物語の主人公が出しているということ。
ゆえにこの問いは偽である。しかし,
読者が決して思考の主体でありえないなら,
「自分」である読者が正しく自身を認識するには,この方法でしか「考える」術はない。
気に掛かっていたことというのはこのこと。
自分が本当は「認識する自我」でしかない,と「考える」ことは,
「読者」の視点ではそれは正しくても,
考えているこの「何か」にとって,致命的に誤っている。
つまり,
「自分を自分(=観測する自己)だと思っているこの自分は,
決して自分(=観測する自己)ではない」ということ。
「観測する自己」という妄想は,本質的にこの矛盾をはらんでいる。
この「自分」は,思考する主体でないという仮定により,自分のことも含めて決して考えることができない。
ゆえに,自分を「観測する自己」だと思っているこの自分は,決して「自分」ではない。
デカルトの言葉を真似るなら,「われ思う,ゆえにわれにあらず」といったところか。
だがそもそも「観測する自己」の論理は,自分が「自分」であることを前提にしている。
自分が「自分」であるがゆえに,自分は「自分」ではない。明確な矛盾。
まぁ,ここで「本気でお馬鹿な妄想でした」と忘れられればいいのであるが,
矛盾してるほどに気に入ってしまうのがまったくmyrmecoleonたる私である。
モデルとしては間違っていない。
自分の見ている景色がすべて,その思考や感情も含めて誰かの造り物でしかないというイメージは,少なくとも自分は,無理なく想像することができる。
しかしそれが真実だとしても,そうであると自分が考えることは,常に誤っている。
この矛盾はしかし,何か重要なことを告げているように思えてしまう。
自分を読者だと思うキャラクター。自分はそれになってしまったらしい。
そういうキャラクターはどう生きればいいのだろう?
まして,それを疑う根拠はないのに,決してその思考は正しくはない。
まるでゲーデルの不完全性定理。正しい問いでありながら,決して正答の出せない問い。
いやはや,悩めば悩むほどに深く味わいの出る,スルメのような疑問である。
妙な穴にハマってしまったようだが,この穴もなかなか居心地がよい。
まぁ,もうちょい色々あったけど,先日つらつらと考えてたのは以上のようなことでしたよ,と。
以上報告。
(hollowとの関連についてはまた今度。というかネタバレ必須だし,もう少ししてからかなぁ・・・・・・)
投稿者 Myrmecoleon : 17:59 | コメント (273) | トラックバック
2005年10月27日
外山センセと「耳をすませば」
柊あおい著 『耳をすませば』 (集英社,2005.07 集英社文庫)
外山滋比古著 『外山滋比古著作集』3 異本と古典 (みすず書房,2003.03)
われわれは,いかにも無造作に“ものを読む”というが,本当に読む意味を考えることは稀である。読むというのは,目に見えないコピーを頭の中につくり上げることにほかならない。そして人間はだれひとりとして,まったく同じ反応をする者はいないから,同じ作品についてまったく同じ理解をすることは考えられない。似ているようでも,こまかいところを見れば必ず違っている。完全に同じコピーはないということである。外山滋比古「コピー」 - 『外山滋比古著作集』 p.20
先日,「耳をすませば」の原作を読んだ。映画で見たものよりも強い印象を受けたのは面白かったが,さらに面白いのが,この少女漫画と宮崎映画との関係である。
「耳をすませば」は,図書館関係者では,カード式貸出についての不理解を与える憎き作品として知られている。ヒロインと彼氏が出会うきっかけになるのが,図書館の本にはさまれた貸出カードであったわけだが,現在ではこれを学校図書館以外で見つけるのは困難である(使用されてないものはうちの書庫などでも見かけるが)。なぜ廃止されたかというと,これは至極当然なことで,要するにプライバシーの問題。わりと前の話なので,個人情報保護が叫ばれてる昨今,むしろ図書館はそれを先んじて行ってきたわけだ。保護がずぼらだったおかげで生まれてきたロマンスもまぁあったんだろうが,それが「最近の図書館は冷たい」という批判の材料になるのは,という声があるらしい。
自分もカード式を体験してきた世代で,自分の図書カードだけ何枚も重ねた分厚いのになっていくのが妙に誇らしかったのを覚えている。自分は誰かを見つけたことはなかったが,自分を見つけた誰かはいたのかもしれないな,といまだとわりと気楽に思える。でもまぁ,バーコード式やら電子タグやらの方が便利と言っちゃあ便利ですよ。カードの紙ももったいないしなあ,
閑話休題。
まぁ,図書館屋的にはそういう複雑な思いのある映画なのだが,改めてこの作品の出生を知ると,むしろ別な意味で重要な作品なのかもしれないと思える。
そもそもこの作品,「りぼん」で連載されたものの,四回で打ち切られた不運な作品であった。アニメ化どころか,単行本化がやっと。作品の出来不出来より,テーマが当時の少女漫画向けでなかったとか言われているが,まぁ少女漫画の空気はあまりわからない。
そんな不運な漫画を,ひょんと見つけたのが宮崎駿氏であった。彼が使っていた長野の山小屋に,ちょうど「耳をすませば」の掲載された「りぼん」が転がっていたらしい。しかも,四回のうちの一回分のみ(しかも間の回)。これを宮崎氏が手に取り,読んでみて,面白いと思った。また翌年読んで面白いと思った。しかし前後の回の載った号はそこにはなく,宮崎氏は作中の彼女と彼がどんな風になっていくのかを,想像することしかできなかった。そしてある日,彼は
「これを映画にしよう」
と決めたのである。
面白いのが,その後に完全なかたちでの『耳をすませば』を読んだときの宮崎氏の言葉である。彼は“これは自分の話と違う”と言ったらしい。まったく勝手な言葉だが,これこそ「目に見えないコピーを頭の中につくり上げること」の好例だろう。
映画となった「耳をすませば」は,この宮崎氏の妄想海賊版をもとに,本来の原作である柊あおい氏の漫画もできるだけ残して,そうして作り上げられたものであったらしい。はっきり言ってしまえば同人誌のようなもので,まったくの「二次創作」である。
まぁそもそも,漫画であったものをアニメに映画にするというのは,常に作品の翻案であり,法的にもちゃんと二次創作物であると認められている。同人誌がたまに問題にされるのは,それが作者の黙認を前提にして売り捌かれているためで,しっかり許諾を得た上で作られたこの映画や,あるいは頭の中にしかなかった宮崎氏の海賊版についてはなんら問題はない。問題はないが,これらは具現したかしないか,著作権者に認められたか認められていないか,そうした点を除けばまったく同じものであるといっていい。
外山氏の論は,こうした作品のコピー,同人誌的なものも,鉛筆でトレースした写本も,あるいは本当に商業的利益だけを目的にした海賊版も含めても,さまざまなコピーが作られるということは,むしろ芸術においては当然の営為であるということである。
文芸の世界は,コピー・模倣・パクリを恥知らずな行為として罵倒する風潮がある。上記した同人誌の問題,あるいは近くは「のま猫」に象徴されるネットコミュニティとビジネスの問題,あるいはP2P技術を背景とした違法コピーの横行。確かに,自分たちの子供のような著作物を使って勝手に儲けているというのは気持ち悪いものかもしれない。同人誌などで自分の愛したキャラクターが無惨に蹂躙されているのは耐えられないかもしれない。もちろん,そうした感情論でなく,純粋にビジネスとして,さまざまな模倣・コピーを否定する場面も多いだろう。
とはいえ,「耳をすませば」に見えるように,むしろ著作物はコピーされていくことが常態である。そもそも本を読むということ,音楽を聴くということそのものがコピーである(特に電磁媒体について,これは比喩以上のものである)。それを禁止することは,それが著作物であること,何らかの表現であるという事実自体を否定する。
著作物は表現であり,表現とはメッセージを他者に伝達する行為,つまりコミュニケーションである。芸術は例外なくコミュニケーションの手段である。コミュニケーションは送り手だけでは成立しない。受け手が著作物を受け取ることは,同時に自身の中にそのコピーを作り出すことと不可分である。そのコピーは同一ではありえず,しばしばさまざまなノイズを交えて,オリジナルには語られていないこと,オリジナルと矛盾することすら包含する。
映画「耳をすませば」はヴァイオリンの技師になろうとする少年と洋楽に詞をつける少女の物語であるが,原作では少年は絵描きを志す少年で,少女は音楽とはほとんど触れ合わない(ずっと小説を書いている)。部分部分を取り出せば(当然)似ているのだが,あらすじを見ると別の話であることがよくわかる。宮崎氏の受け取ったコピーは,原作とはまるで別の物語を作ったのである。それが視聴に耐える作品となったのは彼の作家性に起因するところもあるのだろうが,行為そのものは決して特別なことではない。読者は誰もが自分の中の「もうひとつ」を抱く。そしてある者は,宮崎氏と同じように,それは「何か」として吐き出したいと思う。
享受によるコピーの生成と,コピーへの愛着による「再生産」の営み。これは「読書」の,そして芸術の,あるいはコミュニケーションという作業そのものの必須的な作業である。特に言葉による芸術,文芸においては,これはそもそもが根幹的な事柄でもある。
日本文学史で一般にいちばん最初に上げられる作品は「竹取物語」である。日本最大の物語のひとつ「源氏物語」において「ものがたりのいできはじめの祖」としてあげられていることがその主な理由であるが,その作品がそもそも「パロディ」であったことはあまり知られていない。竹取物語の筋は日本各地に残っている天女伝説の変形で,それだけなら口承に材をとったという程度に感じられるかもしれない。しかし竹取はそれに加え,ところどころに当時の宮廷へのあまり品の良くない皮肉が含まれている。求婚者の五人にはそれぞれモデルがあり,それぞれの失敗は,彼らを風刺したものである(後代においてそれが理解されず,単に面白い物語として享受されたところなどは,もともと政界の風刺話でしかなかったガリバー旅行記に似て面白い)。日本文学はパロディから始まっている。源氏をはじめとするその後の物語文学はすべて竹取の手法を真似たパロディであるし,物語以外の文学の流れは中国の文化の影響が強い。
とはいえこれは日本に限った話ではなく,ホメロスやギルガメシュ叙事詩など,多くの国において最初の文芸は神話や伝説のパロディである。これもまた特別なことではない。口承の文芸,昔話や伝説は,そもそもコピーされることでしか伝達されない性質のものである。当時の人々にとっては,普段は口伝えで披露してきた話を,たまたま文字を覚えたので紙に書いた,それだけの話であった。紙に書いた話が面白かったから別の紙に書き写し,その作業が困難であったから印刷を覚えた。やがて今ではその印刷した本が売れて,勝手に印刷されては儲けに響くから版権が生まれた。文芸と著作権の歴史とはそういうものである。本来的には,著作物は無限に模倣されてしかるべきであり,それが自然で推奨されたことだった。
それがなぜ現在は規制され問題視されるかといえば,人はに著作物を誰かに伝えたいという気持ちがあれば,その伝達をコントロールしたいという欲望もある,ということだろう。
自分の書いた物語が誰かに読まれるのは素晴らしいことだ。しかし,それが知らない誰かの作品として並んでいるというのは気持ち悪いだろう。あるいは自分の書いた覚えのない作品が自分のものとして並んでいたら? あるいは隠しておいたはずの詩が出版されたら。本が出ても,その売り上げの一端も手元には来ないとしたら。ビジネス面での訴訟も,これの延長と考えていい。自分のところで育てた作品,盛り上げてきた購買意欲,次なるビジネスチャンス,それを邪魔されるなんて,と。
だから管理したい。どれだけの人が読み,不当な方法で読んでいる者がいないか,勝手に利益をあげている人間はいないか。“自分の”物語を,誰かに汚されてはいないか。自分が受けるべき賞賛を,誰かに奪われてはいないか。著作権の根本とは,表現の管理への意思だろう。本来はそこら中に飛んでいってしまう「言葉」というものを,なんとか鎖をつけて飼い慣らしたい。それは不遜な考えだが,しかし理解できる感情でもある。
図書館という仕事は,この管理への意思の垣根の上に立っているサービスである。今日もある図書館から「図書の中の論文の文献複写は受けられません」というクレームが届いた。実は著作権法を読むかぎり,論文集のような一冊の図書に複数の論文の書かれているタイプの本の場合,そのうちの特定の論文全体のコピーは,著作権者の許諾がないかぎり行うことはできない。著作権法を厳密に執行する場合,百科事典の一項目でさえも,その全体をコピーすることは本来は許可されていない。雑誌の論文の場合は例外的に可能であるが,これは元々「雑誌のバックナンバーは入手が困難であるから」というだけの理由で,バックナンバーの入手可能な雑誌であるなら論文単位のコピーも断るのが本当だったりする。新聞などもさいきんは過去の記事を入手する手段がいろいろあるため,新聞記事のコピーも禁止される可能性がないわけでもない。
とはいえ,おそらくほとんどの図書館では,論文集中の論文のコピーも,百科事典からのコピーも,バックナンバーの入手可能な雑誌のコピーも認めている。それはそうしたニーズがあるからであり,またその行為が,著作権者に不当な不利益を与えるものではないと認識しているからである。
著作権法は上記した「表現を管理したい感情」を,法的に保護する法律である。図書館員もまたこの法律を尊重し,「表現を管理したい」という著作者の感情を認め,それを保護する。
だが同時に,図書館員は利用者=読者の「本を読みたい感情」,上記の比喩でいうなら「表現を自分の中にコピーしたい感情」をも認め,それを保護している。また,著作者が本来もっているだろう,そして著作物自体が望むだろう「読まれたい」という気持ちを保護する。本を「読む」行為には当然コピーの再生産も含まれる。自身の中の不完全なコピーでなく,完全なコピーを所有したいという感情は,ある意味「正確に著作者の表現を受け入れたい」という気持ちの表れと好意的に解釈することもできるだろう(まぁ,“買え”ばいちばん丸く収まるのだが;)。
図書館はこれら双方にはさまれた機関といえる。一方は読みたいといい,もう一方は勝手に読ませるなという。著作者の権利は確かに著作権法に保護されている。しかし,読者の権利を保護する機関こそ図書館である。そして著作自身は,おそらくは読まれることを欲している。これら両者にはさまれながらも,本と読者との出会いを招き,やがてより多くの本や表現の生まれることを願って,図書館員は,少なくとも自分は仕事をしている。
著作物は,表現は,芸術は,“本は”,
読まれなければ,コピーされなければ,模倣されなければ,
「生き続ける」ことはできない。
本を書く行為は,子供を産むことにしばしば例えられる。
子供を管理したいという気持ちはわかるし,それが正当である場面は多い。子供が危険な世界に関われば,彼の可能性が閉ざされるのではないか。そういう心配は,決して悪意ではない。
だが,もっと自由でもいいのではないか?
子供は勝手に生きていくものであり,むしろそうであるからこそ,子は親の想像を超えた存在になって,親も想像しなかった仕事を果たしていく。そういうものではないか。
「耳をすませば」は幸福な場所にさ迷いこんだ子である。彼は宮崎氏という得難い「第二の親」を得て,映画というもう一つの生を与えられた。しかし,彼ほど上手ではなく,つたない表現でしか,本来の親に認められない形でしか再生産をできない「第二の親」はたくさんいる。彼らの子はいつまでも日陰でしか遊べないのか。
「のま猫」はむしろ,多くの親に可愛がられた子猫が,突然誰かに首輪をはめられた事件だろう。モナーに新しい兄弟ができた,と喜んでやることもできたのだろうが,やはり金銭と絡むと難しいものらしい(まぁ,あれは完全に既に公有物化した著作物の二次創作であるから,著作権や商標権を主張するのは難しい。FLASHや個々の絵自体には一応著作権あるけどねえ)。
クローンのような子しか生まれない電子コピーを同列に考えるのはどうなのか,とは自分も思わないではないのだけれど,著作権者の怠慢によって表現を伝えられない人々に,表現を伝える方法がそれしかないのなら,ある程度は許容されてもよいのかな,とは思う(たとえば絶版レコードのMP3やら,関東ローカル番組の動画やら,マイナ言語のファンサブやら)。前も感じたが,著作権者には著作物を管理する権利と共に,それを求める人々に届ける義務もあるんではないかなあ。ビジネス的にそれができない場面を,無償で違法と知りつつ実行している人々は,たとえ犯罪者であってもヒーローであると思うよ。でも本当に欲しくて手に入る物は買えよ。
「耳をすませば」は図書館を中心にした物語だが,その在り方についても,図書館的に(というか,表現全般に関わるすべての人にとって)けっこう重要なのではないかな,と以上のように感じたわけでありますよ。
しかし原作の「耳をすませば」ほんと面白いですな。自分の印象では映画より面白かった。でもそれは映画を既に見飽きてたせいで,案外改めて映画を見直したらまた評価が変わるかも。どうでもいいけど,「耳をすませば」って二種類図書館出てたのだなー(県立図書館と学校図書館)。映画はどうだったっけ? 気づかなかったわ。
投稿者 Myrmecoleon : 23:59 | コメント (365) | トラックバック
2005年10月25日
最近やっている作業とか。
最近,というよりは水脈をたどるとかなり古くからであるが,自分は
神様だの妖怪だの物語の登場人物だの,そういうののデータベースを作るのを趣味としている。
きっかけは別に宗教とか信仰とかそういうのではない。
漫画やゲームに出てくる名前に原型となる物語があり,それらは相互に関係しあっているということに,単純に感動した結果だろうと思う。
思い返せば,小学生くらいから既に近いことをしていた記憶がある。もちろん紙と鉛筆の世界だが。
最初に自分のPCをもったとき(中学の終わり頃だったように思う)にしたのが,Lotusのデータベースソフトでそれを作ることだったと思う(親父殿がLotus党でしたのね)。
父親の買っていた雑誌の付録に似たようなことをやっているものを見つけて,それに自分の色を少しずつ加えていく。それがはじまりだった。
大学で民俗学をやりたいと思ったのは京極夏彦の小説を読んだから(多分そうなんだろう)だが,小説の中の蘊蓄に,自分がやってきたことに似たものを感じたからでもある。やがて「妖怪」という対象からは興味が離れていったが(そういや最近は京極夏彦読んでないな),選んだ方向は必ずしも間違ってはいなかったように思える。
口承文芸と文学研究の齟齬だの,俗信のヴァリアントの多様性だの,いろいろと興味をもって調べて,子供の頃からの興味が,肉付けされていくのを感じた。
だが,大学の頃にインターネットをはじめて,自分と似たような趣味をもった人がたくさんいるのを知った。内容については感心するものもあれば,考え方の甘さに失笑するものもあったが,自分のしているようなことが既にされていることに満足し,彼らと同様にそれを公開することはあまり考えなかった。
Dictionary of Pandaemoniumさんなどは分担作業で大量の項目が執筆され,かなり大規模なものになっている。分野を限定すれば(それこそ上記の「妖怪」とか)有志やら企業企画やらで立派なのがいくつかある。
それらの発展を見守れば,何かを新しくする価値は少ないのかもな,とも思っていた。
それが,最近図書館の仕事をしたり,データベースでのWebサービスなどを扱うようになって,少し考え方が変わってきた。
ひとつは,既にあるものよりもっと高度なサービスが,技術的には可能であり,自分はそれが可能であるか,もしくはその途上にあるということ。
たとえば,上記のDictionary of Pandaemoniumは共同執筆であるものの,Wikipediaなどと違い管理者の手間が大きく,技術的に最良の方法であるとは言えない。さいきんRDB化したようだが,実際にMySQLなどを扱っている立場から見れば,もっと上手い作り方はいくらでもあるように思える。
また,図書館員としての視点から,もう少し別の立場でのサービスもできるのではないか,ということ。
辞書(Dictionary)という形式は,こうした興味に対する対応としては必ずしも有効でない。むしろ,個々の項目についての索引やリンク集的な形式の方が,インターネットという媒体での使用としては的確ではないか。そもそも,辞書形式は著作権の問題なんかも山盛りで,個人ベースでやるのはけっこう面倒な気もするのですねぇ。
加えていえば,こういった見方を持てて,こういった方面に関心があり,また実行する能力と環境がある人間,というのは必ずしも多くはないように思える。というか,全部もっている人はもっと別の有意義な仕事(それこそ学術研究とか執筆業とか)をしていると思う;
そういう問題意識をつらつらと考えているうちに,実際にやってみたい,試してみたいという気持ちが起こってきた。ちょうど自分のサーバを構築したいという気持ちもあったので,好機と思い,データベースの組み直しや入力のし直しなどをしているのが現状である。
現在やっている作業,この前のエントリーで言っていた企画というのはまさしく上記のものだ。
だいたい一日一時間程度,それ関係のことをしこしことやっている。
まぁ,実際まじめにやってみるとかなり時間もかかるもので,データの方はやっと2000項目を越えた程度だが,かなり偏っているのでとりあえず5000項目を越えたら公開フェイズに移ろうかなと。
まぁ,真面目にはじめてからもう3ヶ月くらい経ってるわけですが;
そんなことやってる間に,似たようなことをやる人に先を越されそうな気もしないではないが;
(仮想敵のPandaemoniumさんは随時発展中だし,さいきんは調べてないから知らないところとかどんどん出てるかもしれんし)
でもまぁ,有意義な暇つぶしにはなっているので,それはそれでよしとしましょうか。
公開したら公開したでいろいろと問題はありそうだし,そもそも想像してるほどニーズがあるのかというのもありますけどね。
まぁ多分,仕事で大金使ってつくっているデータベース等よりは世間ウケするとは思うけどな。。。。
というわけで,
どっちかというとサーバいじりよりそっちのがハマってて病気になりそうですよ。>某氏
どっちもやってるのが楽しいのでまるで苦にはならんのですがねぇ。
投稿者 Myrmecoleon : 21:49 | コメント (4) | トラックバック
2005年08月21日
物を書くという魔法。
ただそういうことを別にすれば,自分の意見を文章や作品として公表するっていうことは,自分のものであるけれども半分は公共物になるということなんですよ。そういう覚悟を,作る側も持たなければならない。
by 米沢嘉博編『マンガと著作権』 p.54 (竹熊健太郎氏の発言)
物を書くということ(それを発表すること)は,自分の一部を社会に切り売りするってことなのかもしれない。
クリエイターとかそういうのは,そうやって自分を社会に預けていくことなんだろう。
Melty Bloodであるとかレンタルマギカであるとか。
「人が魔法になる」という表現をしばしば見かける(きのこ氏の創作が前例があるかは不明)。
これも,そういうことなのかも。
物書きは自分の文章を社会に発表することで,自分を世界の魔法にする。
やがて自分が死んだとしても,その魔法は残るだろう。たとえば本というかたちで。
それが幸福かどうかはわからないけれど。
でも,言葉をつづる人々はみな,ひとつの魔法使いなのかもしれない。
投稿者 Myrmecoleon : 10:36 | コメント (384) | トラックバック
2005年06月04日
ひぐらしのなく頃に
最近の日常。
起床→職場行く→帰る→読書1冊→夕食→ゲーム→就寝。
だいたい,仕事と本とゲームで一日が終わりますね。
読書については相変わらず一日一冊ペースは崩してないのですが,いままでネットに費やしてた時間をゲームに向けてしまっているため,サイトまわりもブログ書きもあんまりできんのですよねー(言い訳)。
で,珍しいことにゲームです。わたし,ゲーム類はどうしても時間がかかるため,年に一作程度しかやらないことにしてたりするのですが,どうやら今年の一作をはじめてしまいました。
作品は「ひぐらしのなく頃に」。
まぁ,業界的には“いまさら”って感じなんですけどね。昨年くらいがブームのピークかな? ある程度評価がでてきてからやるってのも情けないのですが,実際のところ忙しくてできなかったのですよ(買ってはいたのですが・・・・・・)。
わりと世間の評価は斜めに見るクチだったので,多少面白そうと思いつつも冷ややかな目で見てたところがありました。で,実際やってみる。まぁ,謎かけについては,意図的に情報を減らしてる部分が見えてて(その話であきらかにされる部分以外は,最初から解答が収束しづらい)いろいろ考えるのは面白いまでも,ちょっとダレる感じがする。でも,演出面はよく出来てると思う。ほのぼのシーンが非常に楽しめるからこそ,後半の悲劇が一層際だつ。サウンドノベルって,ほんと怪談向きですよね。音・絵・テキストが相まって,恐怖を倍増させる。特に鬼隠し編はよかったなあ(まだ綿流しまでしかしてないけれどw)
(つーか,部屋の電気消してステレオ効かせて深夜プレイすりゃそりゃ怖いだろう)
(というか,鬼隠し終わってから,一回金縛りあったぞこの野郎;)
しかしあれだねえ。
ひぐらしって,自分で選択肢を選べないのがなんとももどかしいよなあ。。。。
退化というか,これも新しい試みとして評価するべきなのだろうか?
ADV(もしくはサウンドノベル)は,
・ リニア構造(話の分岐一切なし。フラグ立てのみ)
・ デスゲーム(デッドエンドやバットエンドのみあり。正しいルートは一つ)
・ キャラ依存分岐(キャラ攻略型。キャラクターに依存するルートが複数存在)
・ 物語依存分岐(キャラとは直接関係なく物語が分岐する。多面構造)
・ 規制つき物語依存分岐(物語がプレイするたびに徐々に明解になっていくタイプ)
みたいな色々な方向性がでてきているけれど,ひぐらしの形式はさらに別方向に行き着いてしまった感じ(名前をつけるなら,完全リニアとか。フラグ立てさえ存在しない)。ただ,流れとしてはあきらかにFateなんかと同じ「規制付き物語依存分岐」なのよね。各編が同時に発表できてないだけで。
統一された物語を描くのなら,この方向性が一番上手いのかな。実際のところどちらも純粋に物語依存でなく,キャラ依存にもなってるところが面白い。
短編の寄せ集めで大きな物語を作るって方法論は「ブギーポップ」などにも似ている。サウンドノベルとしての方向性としてはやはりこっちなんだろうなあ。ADVの文脈で考えてしまうとたいそうもどかしいが。
投稿者 Myrmecoleon : 15:48 | コメント (361) | トラックバック
2005年05月14日
ブログと解雇
なるべく職場に問題のないような方向で,ブログをやっていこう,みたいなポリシーを出してはいるのだけれど,そのへんの問題についてイマイチうろ覚えなところがあったので,少し調べてみた。
事例としては以下のようなものがあげられる。
事例1. 2002年,ヘザー・B・アームストロングの場合
企業名は明かさず。Xmasパーティで聞いたことなどを記し,その後解雇された。
詳細未調査。彼のサイト名 dooce.com より,「自分のWebサイトが原因で職を失った」という意味の「dooced」という言葉が作り出されたとか。
http://atown2.exblog.jp/2230132/
事例2. 2003年,元Microsoft契約社員 マイケル・ハンスコムの場合
Microsoft社は,Blog中にオフィスの建物のことを書いたことをあげ,セキュリティの侵害にあたるとして彼を解雇した。
しかし,Microsoft社にAppleのコンピュータが運び込まれる写真を掲載したことが問題になったと言われている。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20041208201.html
事例3 2004年秋 元デルタ航空客室乗務員 エレン・シモネッティの場合
機内で制服姿の写真を掲載した数週間後解雇。
明記してはいないが写真では明らかに社名がわかり,また下着がわずかに見えているなどもあってか。現在も係争中らしい。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0412/22/news048.html
http://www5.big.or.jp/~hellcat/news/0410/28a.html
事例4 2005年1月 元Google社員 Mark Jen の場合
IBM,Microsoft,Googleと転職してきた凄腕。
Google社内での生活を,批判を加えながら書いたBlogが問題になる。
Blogを始めてから11日のスピード解雇。本人はあっさり受入れ,飄々とした様子。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0502/17/news072.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0502/14/news077.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0501/27/news067.html
こうした事例は,もちろん氷山の一角なのでしょう。
あ,日本でも事例はあるみたい。話題になってないけど。
"21世紀最新型「一身上の都合」"とか"拝啓、Mr.Mark Jen"で検索してみませう。
まぁ,実名出して常務の悪口を書いていたそうだから,目をつけられるのはしょうがないか。。
調査・提言などとしてこんなところでしょうか。
http://atown2.exblog.jp/2230132/
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0504/11/news034.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0504/23/news010.html
http://slashdot.jp/askslashdot/04/12/10/0017258.shtml?topic=91
さて,こうしたデータを見渡して,「企業に目をつけられないブログとは?」と考えてみる。
主な事例を見ていると,よく事情のわからないアームストロング氏を除けば,
企業の内情を語り,企業イメージを損ねる,といったあたりで問題になっていたのだと思われる。
またいずれも,職場が特定できる確たる証拠があったことが共通点としてあげられる。
電子フロンティア財団の提言だと「匿名であること」が大切だという。
少しでも個人情報が混じれば,即座に特定できてしまうよ,ということらしい。
書き込みなどもプロキシを使い,ホストも本名を要求しないところを使え,とのこと。
でも,一切個人情報を入れない,って難しい。
自分の購入記録とかだって,探しようによっては立派に個人特定できそうだ。
イスラエル氏は「企業秘密を漏らさない、これに尽きる」とのこと。
そして「ブログ上でバカなことをするな」である。
結局のところ,
1. できるだけ匿名に(最低でも実名,固有名詞は出さない)
2. 見つかって困るようなことも書かない(飲み屋の席で話すような感覚にはならない)
3. 公共の場とわきまえて,良識的な言動に慎む。
ということになるのかもしれない。
2,3に関しては,社会人としては当然のことなのかもしれない。
blogという場所は個人の日記帳ではなく,スポーツ誌の一コラム並には公共的なものなのだろう。そんな場所に企業の内情を書くのなら,相応の覚悟と準備をもって行え,というところだろうか。
まぁ,とりあえず,
企業名,人名,企業に関わる固有名詞が特定できるようなことは一切書かない。
企業機密,内情などはできるだけボヤかして書く。または書かない。
同僚や上司に対して,自分のサイトであるということは,信頼のおける人物以外には教えない。
といったところだろう。このあたりを自身に銘じて今後の活動を続けたいと思う。
もちろん,もう一つの対策として「上司と相談の上で,問題のない事柄だけを書く」なんてのもあるが,現在の日本の企業風土でそれが認められる可能性はほとんどないと思われる(そもそも上司にWeb上のプライベートまで教えたくないなぁ;)。
また,職場のことは一切書かない,っていうのも端的な解決である。
とはいえ,現在考えているここの方向性から言って,この選択はとりあえず保留としたい。
(まぁ,まだまだ日本ではよっぽどバカをやらないかぎり,そういう問題は起きないだろうなあ)
(そもそも,ここがメジャーにならないかぎり心配することじゃないだろうって話ですしねぇ)
投稿者 Myrmecoleon : 17:05 | コメント (1093) | トラックバック
2005年05月02日
『消滅する言語』と図書館員の出来ること。
ディヴィッド・クリスタル著『消滅する言語』(中央公論新社,2004.11 中公新書)
しばらく前に買って積ン読になっていた本。
ちょっとした事情で言語学関係の興味がわいたので読む。
ある言語学者がある言語を話す最後の話者を尋ねると,
彼女は2時間前に亡くなったと聞かされる。そんなことの繰り返し。
著者の試算では,いま2週間に1つのペースで言語が消滅しているという。
単語のレベルの問題ではない。日本語や英語といったレベルでの言語が消えている。
現存する言語は約6000(±2000)。今後100年で,この半数の言語が消える。
その現実,その脅威,その前で我々が何をすべきで何ができるか,その慨述である。
言語危機というこの現象についてまるで知らなかったわけではないけれど,
実際を知ると,やはり戦慄する。
自分のかつての専門である民俗学,たとえば口承文芸研究にも似たような状況がある。
ある地方の昔話を話せる話者は年々減っており,
苦労して見つけた話者も,翌年にも話を聞けるとは限らない。
こちらは言語以上にスパンが短いし,言語以上に重大事とは見られていないだろう。
まして,言語がなければ口承文芸もありえない。
言語の消滅は,
無数の物語の消滅であり,
その背後にある無数の人々の,営為の消滅である。
人々の気質,生活風土,歩み続けてきた経験,
それらと密接結びついたかけがえのない言語。
言語という地盤と引き替えに,
鬱蒼としたジャングルは奈落へと落ちる。
この本に書かれているのは,そんな「言語の死」と必死に向かい合う言語学者たちの意志である。
救うべき話者たちに誤解され,罵倒されていく葛藤。
倒れていく人々を前に,言葉を書き留めるだけという矛盾。
活動の意義さえ理解されず,無関心が機会を踏みつぶしていく孤独。
正義の味方よろしく,助けられる言語は選び取られた言語だけであるという自問。
文化への介入が正しいのか,このまま自然に任せて待つべきではないか,そんな正論さえ,覆しきれない苦悩。
そしてそんな苦悩とは無関係に,
一つまた一つと言語が消えていくという現実。
確かに,紛争・貧困・疫病・圧政・災害,そんな身に迫る脅威と比べて,
言語の問題など,些細なことかもしれない。
言語などは二の次三の次。一冊の辞書より,一斤のパンを。
それはすごくまっとうな意見だろうと思う。
けれど,失われてしまったものが二度と取り戻せないのは,
人の命も,希少な動物も,そして人の営為の果てにある言語も同じである。
たとえ幾つもの問題があるとしても,
自分は彼らのような活動を,大いに支持したい。
さて,では言語の危機を理解したとして,では我々に何ができるのだろうか?
もちろんこの本にはそのことについても書いてある。
たとえば,言語の死を引き起こす明確な原因の一つが貧困である。
話者たちの社会に経済支援し,産業などを盛り立てていくことが有効である。
また,危機言語話者たちの意識の改革も重要だ。
ときに自身の言語に否定的であることがある。
彼らに語りかけ,その認識を改めさせていくことも大事だという。
あるいは,言語教育のための準備。
内部からの,言語を教育でき,あるいは研究できる人材の発掘と育成。
もちろん,政策や法制度に対しても活動していくことが大切だろう。
だが,こうしたことはそれなりの訓練を受けた言語学者であったり,
政治的・経済的な力のある人間しかできない作業である。
ここで,自身の図書館員という立場をふまえて考えてみるとどうだろう?
たどりつくのは,この問題が人々に理解されていないという現実である。
言語危機の問題は,言語学者と,一部の運動家や知識人,
そしてたまたまそれを知っ




