2006年02月18日

「図書館の自由」に関して - 『図書館戦争』感想・その2

有川浩著『図書館戦争』(メディアワークス,2006.3)

『図書館戦争』

前回の感想をふまえて。改めて書いてみる。

某所で以下のような意見を見る。

>読者としてはしゃぐのはかまわんのだけど,決して図書館員としてはしゃいではダメだす。業界はそんな脳天気な気分でいる状況ではない

ああ痛いっ;
いや,「図書館の自由」の部分ではしゃいでたわけではないのだけど。でも少しはしゃいでたかもしれない。

ただ,前回の感想を書いていた時点でも,実は感じてなかったわけじゃない。「正論」に関する思いつきでずんずん進んでいってしまっただけで,作中も含めて,違和感はあった。


図書館の自由宣言(正しくは「図書館の自由に関する宣言」)。

そもそも学生時代にこの宣言について知ったとき,自分の感想は「わあ,それは素晴らしい思想ですね」ではなく「なんか政治臭いなー」だった。最後に「戦う」とか書いてあるのがなんとも。
まあ発想自体は理解します。焚書や検閲といった暴走は資料提供の範囲をせばめ,図書館という思想(情報を収集し整理し提供する)そのものの機能を阻害する。確かにそれは問題であり,その動きがあるのなら反対すべきだろうというのはよく感じる。
ただ,「そんなことにかかずらわるより先にすることがあるんじゃないか?」と感じたのも事実。自分はむしろ図書館の実学的な側面の方に興味をもってしまい,使いもしない分類法とかレファレンスの技術とか機械化や電子図書館の可能性だとかばかり勉強していた記憶がある。これはこれで問題なんだろうが;

現実に図書館で働いていると,そんな不当な検閲やらで見られなくなっている資料よりも,自身の未熟や目録の不整備のために確認できなくなっている資料の方が多い。
自主規制的な検閲は確かに問題だが,それよりも灰色文献をどのように入手するかの方が学術図書館としては重要であったりする。

正直なところ,思想としては「図書館の自由」よりランガナタンの「図書館の5原則」の方が好きだ。

第1原則 図書は利用するためにある。(Books are for use)
第2原則 図書はすべての人のために存在する。(Books are for all)
第3原則 すべての本を読者に。 (Every books, its reader)
第4原則 読者の時間を節約せよ。(Save the time of readers)
第5原則 図書館は成長する組織体である。(A library is a growing organization)

特に,よく言われる第五則の「成長する有機体」よりも第四則の「読者の時間を節約せよ」が好き。こここそが「図書館」の最大の意義であるように感じる。

誰だって,ある本を入手しようと思えばできる。たとえばお金を払えば一般に流通しているほとんどの本は手に入る(そういう時代になった,とも言えるが)。確かに世の中に存在しない本は手に入らないかもしれないが,その代替がありえないとは限らない。無限の時間とコストを支払えば,実在していて手に入らない情報はほとんどない。
その前提があってはじめて図書館の価値がある。
その人の一生を費やさなければ入手できなかっただろう文献を入手できるという機会。まったく縁のない,しかし必要な知識を手に入れるのに,頼りに出来る街中の図書館。自分であちこちを調べるよりも,すぐに何を読めばいいか教えてくれる司書。ここにこそ図書館の価値はあると思う。

文献の提供に関して,現代では重要なのは蔵書というバックボーンよりも,目録や書架,レファレンスといったインターフェイスの方が重要になる。その点,あくまで蔵書の問題や利用者のプライバシーばかりを重大とする自由宣言は,正直なところあまり好きではない。

(ちなみに無料原則も実は嫌い。なんというか,サービスの幅をせばめてしまっている気がする。無料であるがゆえに価値のあるサービスもあるが,そのために有料であっても望まれてるサービスが阻害されるのは不適切だろう。自由原則の第3条も同じ問題点をはらんでいる)

前回の感想にも書いたが,自由宣言はあまりに「正論」なのだと思う。
言っていること自体は間違ってはいない。確かに検閲は正常な情報流通上で忌むべきものだ。たとえば最近の話題の,Googleによる中国国内検閲などは,どうにかならないものかとつくづく考える。
しかしながら,それがすべてに前提する「正義」だとは思えない。
大切なのは,あることについて知りたい人が,その知りたいことを知ることのできること。また,伝えたいものが,知るべき人にそれを伝えることができること。ランガナタンの第二則と三則。
検閲への反対やプライバシーの保護は,そのための問題を排除するための「手段」であり,現実の目の前の利用者や,いま現在可能なサービスを無視してまで主張するようなことではない。


そのへんで,『図書館戦争』を読んでいる中で違和感をもったのは確かである。あまりに「図書館の自由」を持ち上げすぎている。
もちろんエンターテイメントだから,主軸を「自由宣言」においた以上,ほかの部分に手を出すのは適当じゃない。構成上仕方なかったんだと思う。
けれど何だか図書館がひたすらに「反検閲」機関でしかないような描き方は少し違う気がしたのは確か。序盤は図書館員としての仕事にもスポットが当てられていたが,後半はほとんど「図書館員」より「図書館隊」の物語になって寂しかった。自分の主業務であるレファレンスも,言葉だけで実例は無し。

もちろん,政治が暴走し,あのような状況になったら反対しなければならないとは感じる。だが,それがすべて,ではない。だから『図書館戦争』での図書館の描かれ方に違和感はあり,手放しに肯定できる作品ではないのは感じていた。


ただそれでも,一読者としていい作品であると思えたし(現在のラノベの水準でも高い方),また図書館員としても(「図書館の自由」をさっ引いても)よく調べてあって好感が持てた。
(というより,むしろそれ以外の図書館関係の作品がひどすぎるというのが実際だが;)

またそもそも,自分のよく知る図書館という舞台が,自分の大好きな特撮ヒーローのように演出されるのは正直面白かった。無責任に無自覚にはしゃいで,という批判はあるのだろうけれど,図書館員でもある読者として面白いという気持ちは偽れない。
県域を越えて資料提供以上の協力体制をとっていたり,それで人事権を自治体から奪って技能のある人を雇えたり,あれやこれやで莫大な予算をゲットしたり。そんな“ありえない”けれど“もしあったら?”のSFにわくわくしたのも確か。その点,完全にファンタジーな「ビブリオン」よりもあきらかに楽しかった。

この作品が「図書館の自由」のプロパガンダに使われるのは正直なところ癪である。
けれど,これで図書館についての認識が変わるのなら,という期待はある。
何より,「図書館員である読者」として,この物語は面白かった。是非是非続編が読みたいと思う。

そういう意味で,この作品はやはりはしゃいでしまうなー,というのが冷静になった今でもの感想であります。
(まぁ,自分新人であるし。未熟なのかもしれないけどなー;)

投稿者 Myrmecoleon : 23:17 | コメント (3) | トラックバック

2006年02月11日

正論の使い方。

有川浩著『図書館戦争』(メディアワークス,2006.3)

『図書館戦争』

あらすじ。

国民の無関心を背景に無制限の国家検閲を定めた「メディア良化法」に対抗し,「図書館法」が改正され「図書館の自由宣言」を立法化。重火器まで使用しあらゆる出版物を取り締まろうとするメディア良化特務機関に対抗するために,図書館もまた武装した。不当な検閲に対抗するため,図書館は日々,文字通りの「戦争」を余儀なくされる。
かつてメディア良化法の検閲より大好きな本を奪われそうになった少女・笠原郁は,それを救った一人の図書館員に憧れ,自身もまた図書館員を志す。軍隊さながらの研修を終えた彼女は,メディア良化法との戦いに直面していく……

「君たちは――公序良俗を謳って人を殺すのか!」

しばらく前から図書館界隈で少し話題になっていたこの本。発売日と聞いていたので,仕事帰りにちょっと遠い書店まで足のばして買ってきちゃいました。
そして読む。うわ,これけっこう面白いぞ!?

表テーマは「戦う図書館員」。裏テーマは「正論の使い方」ってところでしょうか。
検閲組織と(文字通り)戦闘を繰り広げる図書館員たちの人間模様を描きながら,「正論」(正しいこと)を言うことの意味や危険が上手く示されてます。正論(一見正しいと見えるようなこと)を言って大事な本を奪い去る検閲組織に対し,正論(図書館の自由という理想)をかかげて戦う図書館員たち。しかしその内部でも本音と建て前がちらほら。

「正論は正しい,だが正論を武器にする奴は正しくない,お前が使ってるのはどっちだ?」

正論は他人を責めるためにあるのではなく,自分を戒めるためにある。人間関係のもつれの中でこれを述べさせながら,検閲や規制の問題の批判になっているというのがなかなか上手い。
物語もなかなか楽しめて,続編が期待できます。どのキャラもいいなあ。次は大学図書館の人とかも出して欲しいなー。

図書館関係もなかなかよく調べてあって好印象。というか,むしろ業界の人しかわからんぞこんなネタ,ってのが多数。日野市立図書館とか言ってわかる一般の人がどれだけいるのか。
あと,多分構成上の都合ででしょうが,配架とかレファレンスとか著作権とかの基本的なところが省略されてるのは残念でしたかね。

しかし,よくよく読んで思うことは,本当にメディア良化法みたいなものが施行されたとして,そのとき現実の図書館は戦えるのだろうか,ということ。
そもそも図書館法の改正にこぎつけるのも難しいだろうし,地方自治体から全国的な連合組織に移行するなんてどうすればできるのか。銃器の使用は冗談としても,真に「図書館の自由」が犯されたとき,作中の図書館員たちと同じ情熱をもって我々は戦えるだろうか?

もしそれができないのなら「図書館の自由宣言」なんて,理想だけで実のない「正論」に過ぎない。

「選ぶべきものを選ぶときに選び方を躊躇する奴は口先だけだ」

作中である老人は「本を守ることを謳って人を殺すのか」と迷い,それでも規制に抗うために戦うことを決めた。
真に戦わなければならないとき,我々は迷うことさえできるだろうか?

投稿者 Myrmecoleon : 01:32 | コメント (398) | トラックバック

2006年01月09日

書物の価値の測り方

オーウェン・ギンガリッチ著
『誰も読まなかったコペルニクス 科学革命をもたらした本をめぐる書誌学的冒険』 (早川書房,2005.09)

『誰も読まなかったコペルニクス』

大学の生協にてしばらく前に購入。しばらくかけて,やっと本日読了。
コペルニクスが地動説と呼ばれる学説について述べた『回転について』がどのように“読まれて”いたかを知るために,著者は約30年をかけてこの著作の現存する(orした)初版・第二版のほぼすべてを調査した。その道程を読み物風に書いたものの邦訳。
自分は知らなかったけれど,はっきりいってとんでもないことしてたんだなあ,という感想。
まだまだOPACだのは整備されていなかった時代。世界中の図書館の目録をあさり,無数の書籍商に問い合わせ,知人の研究者の噂を聞きつけ,それで現物を見に行ったら別物だったりする,そんな有り様w それでも地道な調査の結果,ティコ・ブラーエに冠されていたいくつかの発見が無名の天文学者がコペルニクス本に書いたメモのパクリだったとか,ケプラーとお師匠がコペルニクスの仮説について議論してたとか,さまざまな科学史的発見がなされていく。読んでいてなかなか興奮します。
天文学,科学史,および書誌学あたりに興味のある方には普通に面白いのでオススメ。また,本というものがかつてどう読まれていたのか,メディア論的な読みにも向いてるかと思う。本の書き込みがあちこちに伝達されて,ついにはさまざまな著作を生んでるあたりなんかは,ミーム論とか外山滋比古センセの論説なんかとも絡む感じで面白い。人によっては,コペルニクス本さえ旅先のメモ帳扱いだったというのも面白い。

個人的には,コペルニクスの時代は本というのは単に複数枚の紙を出版するだけで,装丁だのは買った人それぞれが業者を雇ってやらせていた,ってのに驚いた。あの時代の本は,同じ著作であっても,一つとして同じ装丁の本はなかったらしい。装丁の模様なんかで誰の所有だったかわかるとかなんとか。
本のデジタル化が進んで,むしろ紙の図書は金持ちの道楽になりつつある昨今,もしかしたら未来の図書もこういうふうになっていくのかも。それこそ中身はデジタルデータからオンデマンド印刷で,それを装丁業者にまわして,「おれの涼宮ハルヒは革装だぜー」「うちのなんか金箔よー」みたいな。そういや革装版『空の境界』とかあったなあ・・・・・・。

投稿者 Myrmecoleon : 20:35 | コメント (159) | トラックバック

2005年12月04日

十月ユウ『戒書封殺記 その本,持ち出しを禁ず』

十月ユウ『戒書封殺記 その本,持ち出しを禁ず』 (富士見書房,2005.11 富士見ファンタジア文庫)

『戒書封殺記 その本,持ち出しを禁ず』

「その本は図書館のものだ。貴様ごときが足蹴にしていいものではけしてない。本は大事に扱う――高校生にもなって,図書館の基本ルールも知らんのか?」
『戒書封殺記 その本,持ち出しを禁ず』, p.11

2005.12.3 アキバ虎の穴にて購入。2005.12.4 帰りの新幹線で読了。仕事(図書館)がらみということで衝動買い。
ああ,似たような話考えたことあったなー,ということで温めてたリストに一個バツつけた。いや,「司書」を自称する凄腕魔術師が危険な魔術師たちをぶちのめすという感じの。やや「爆れつハンター」やら,きのこの「封印指定」やらがかぶってる気はしてたのであんまり驚きはないかな。

作品としては,やはり粗が目立ちます。あとがきで"ミステリーじゃない"と言い訳してますが,ミステリジャンル以外でも伏線ありの意外性,って大事だと思うのですよ。なんか展開が行き当たりばったりな印象がして痛い。文章レベルも,突然三人称が一人称になってる箇所があったりいまいち。処女作だから仕方ないところはありますけどね。

キャラの動かし方もねぇ。ミステリじゃないとするならキャラが多すぎ。半端な意外性の演出のためだけに登場している人物が多い。つーかなんだな,主人公やヒロインより睦美ちゃんが一番生き生きとしてないか? 

ファンタジー物のDBつくってる立場からすれば,登場する魔物の掘り下げが弱いわ,やたらメジャーなのばかり出すわ,ちょっと情けない。動物園から逃げたベンガルトラを触媒にしてマンティコアを召還!とかぐらいして欲しいな(って自分が以前考えてたネタですが)。魔法とか,なんかゲームレベルなんだよな; あのテーマなら,もっと伝奇で考証バリバリでドロドロのも書けるだろうに。

『図書館戦隊ビブリオン』あと現役司書から言わせてもらうと,図書館ネタ少なすぎです(ぁ 「本は大事に」「図書館はお静かに」「本は返却期限まで」ってそれだけかいっw もっと,目録とか分類とか,なあ。。。なんか,本を貸して返すだけの施設みたいで嫌だわ。。。
いや,まあビブリオン(左)ほどベタじゃなくてもいいんですけどね;(あれはランガナタンネタやらNDCネタやらてんこもりだったかんな。。。)
あと,司書教諭が仕事もしないで論文書いててほされないかなー(まあアレはギャグか)とか,部長が毎日貸出当番やっててPTAからクレーム来ないのか,とか。ツッコミどころは多いですな。
あ,でも主人公クンみたいな図書館員ってのはなってみたいかも。ルールを守らない奴にガキーンと。ああはなかなか言えねえ言えねえ。

とまれ,いろいろ文句はあるのですが,ネタがネタだけに,本好きならまぁまぁ面白い。次回作でたらまた読むでしょうね。図書館ネタということで目を付けておきますよ。
しかしなんか,ラノベブームとか始まる以前の,もっとほのぼのしてた頃のファンタジアやスニーカーの雰囲気がある気がする。いや,ファンタジアはいまもこういう調子なのかな? 電撃はわりとぶっとんだ方向いってるからなー;

いや,よく考えると人3人ばかり猟奇的に死んでるし,ほのぼのってわけでもないのか? 単純に文章力の問題か? つか,昔の作家がそういうノリだったって話か? むう。

投稿者 Myrmecoleon : 23:32 | コメント (403) | トラックバック

2005年10月27日

外山センセと「耳をすませば」

柊あおい著 『耳をすませば』 (集英社,2005.07 集英社文庫)

外山滋比古著 『外山滋比古著作集』3 異本と古典 (みすず書房,2003.03)

『耳をすませば』

『外山滋比古著作集』3 異本と古典

われわれは,いかにも無造作に“ものを読む”というが,本当に読む意味を考えることは稀である。読むというのは,目に見えないコピーを頭の中につくり上げることにほかならない。そして人間はだれひとりとして,まったく同じ反応をする者はいないから,同じ作品についてまったく同じ理解をすることは考えられない。似ているようでも,こまかいところを見れば必ず違っている。完全に同じコピーはないということである。
外山滋比古「コピー」 - 『外山滋比古著作集』 p.20

先日,「耳をすませば」の原作を読んだ。映画で見たものよりも強い印象を受けたのは面白かったが,さらに面白いのが,この少女漫画と宮崎映画との関係である。

「耳をすませば」は,図書館関係者では,カード式貸出についての不理解を与える憎き作品として知られている。ヒロインと彼氏が出会うきっかけになるのが,図書館の本にはさまれた貸出カードであったわけだが,現在ではこれを学校図書館以外で見つけるのは困難である(使用されてないものはうちの書庫などでも見かけるが)。なぜ廃止されたかというと,これは至極当然なことで,要するにプライバシーの問題。わりと前の話なので,個人情報保護が叫ばれてる昨今,むしろ図書館はそれを先んじて行ってきたわけだ。保護がずぼらだったおかげで生まれてきたロマンスもまぁあったんだろうが,それが「最近の図書館は冷たい」という批判の材料になるのは,という声があるらしい。
自分もカード式を体験してきた世代で,自分の図書カードだけ何枚も重ねた分厚いのになっていくのが妙に誇らしかったのを覚えている。自分は誰かを見つけたことはなかったが,自分を見つけた誰かはいたのかもしれないな,といまだとわりと気楽に思える。でもまぁ,バーコード式やら電子タグやらの方が便利と言っちゃあ便利ですよ。カードの紙ももったいないしなあ,

閑話休題。

まぁ,図書館屋的にはそういう複雑な思いのある映画なのだが,改めてこの作品の出生を知ると,むしろ別な意味で重要な作品なのかもしれないと思える。

そもそもこの作品,「りぼん」で連載されたものの,四回で打ち切られた不運な作品であった。アニメ化どころか,単行本化がやっと。作品の出来不出来より,テーマが当時の少女漫画向けでなかったとか言われているが,まぁ少女漫画の空気はあまりわからない。
そんな不運な漫画を,ひょんと見つけたのが宮崎駿氏であった。彼が使っていた長野の山小屋に,ちょうど「耳をすませば」の掲載された「りぼん」が転がっていたらしい。しかも,四回のうちの一回分のみ(しかも間の回)。これを宮崎氏が手に取り,読んでみて,面白いと思った。また翌年読んで面白いと思った。しかし前後の回の載った号はそこにはなく,宮崎氏は作中の彼女と彼がどんな風になっていくのかを,想像することしかできなかった。そしてある日,彼は

「これを映画にしよう」

と決めたのである。

面白いのが,その後に完全なかたちでの『耳をすませば』を読んだときの宮崎氏の言葉である。彼は“これは自分の話と違う”と言ったらしい。まったく勝手な言葉だが,これこそ「目に見えないコピーを頭の中につくり上げること」の好例だろう。

映画となった「耳をすませば」は,この宮崎氏の妄想海賊版をもとに,本来の原作である柊あおい氏の漫画もできるだけ残して,そうして作り上げられたものであったらしい。はっきり言ってしまえば同人誌のようなもので,まったくの「二次創作」である。

まぁそもそも,漫画であったものをアニメに映画にするというのは,常に作品の翻案であり,法的にもちゃんと二次創作物であると認められている。同人誌がたまに問題にされるのは,それが作者の黙認を前提にして売り捌かれているためで,しっかり許諾を得た上で作られたこの映画や,あるいは頭の中にしかなかった宮崎氏の海賊版についてはなんら問題はない。問題はないが,これらは具現したかしないか,著作権者に認められたか認められていないか,そうした点を除けばまったく同じものであるといっていい。

外山氏の論は,こうした作品のコピー,同人誌的なものも,鉛筆でトレースした写本も,あるいは本当に商業的利益だけを目的にした海賊版も含めても,さまざまなコピーが作られるということは,むしろ芸術においては当然の営為であるということである。

文芸の世界は,コピー・模倣・パクリを恥知らずな行為として罵倒する風潮がある。上記した同人誌の問題,あるいは近くは「のま猫」に象徴されるネットコミュニティとビジネスの問題,あるいはP2P技術を背景とした違法コピーの横行。確かに,自分たちの子供のような著作物を使って勝手に儲けているというのは気持ち悪いものかもしれない。同人誌などで自分の愛したキャラクターが無惨に蹂躙されているのは耐えられないかもしれない。もちろん,そうした感情論でなく,純粋にビジネスとして,さまざまな模倣・コピーを否定する場面も多いだろう。

とはいえ,「耳をすませば」に見えるように,むしろ著作物はコピーされていくことが常態である。そもそも本を読むということ,音楽を聴くということそのものがコピーである(特に電磁媒体について,これは比喩以上のものである)。それを禁止することは,それが著作物であること,何らかの表現であるという事実自体を否定する。

著作物は表現であり,表現とはメッセージを他者に伝達する行為,つまりコミュニケーションである。芸術は例外なくコミュニケーションの手段である。コミュニケーションは送り手だけでは成立しない。受け手が著作物を受け取ることは,同時に自身の中にそのコピーを作り出すことと不可分である。そのコピーは同一ではありえず,しばしばさまざまなノイズを交えて,オリジナルには語られていないこと,オリジナルと矛盾することすら包含する。

映画「耳をすませば」はヴァイオリンの技師になろうとする少年と洋楽に詞をつける少女の物語であるが,原作では少年は絵描きを志す少年で,少女は音楽とはほとんど触れ合わない(ずっと小説を書いている)。部分部分を取り出せば(当然)似ているのだが,あらすじを見ると別の話であることがよくわかる。宮崎氏の受け取ったコピーは,原作とはまるで別の物語を作ったのである。それが視聴に耐える作品となったのは彼の作家性に起因するところもあるのだろうが,行為そのものは決して特別なことではない。読者は誰もが自分の中の「もうひとつ」を抱く。そしてある者は,宮崎氏と同じように,それは「何か」として吐き出したいと思う。

享受によるコピーの生成と,コピーへの愛着による「再生産」の営み。これは「読書」の,そして芸術の,あるいはコミュニケーションという作業そのものの必須的な作業である。特に言葉による芸術,文芸においては,これはそもそもが根幹的な事柄でもある。

日本文学史で一般にいちばん最初に上げられる作品は「竹取物語」である。日本最大の物語のひとつ「源氏物語」において「ものがたりのいできはじめの祖」としてあげられていることがその主な理由であるが,その作品がそもそも「パロディ」であったことはあまり知られていない。竹取物語の筋は日本各地に残っている天女伝説の変形で,それだけなら口承に材をとったという程度に感じられるかもしれない。しかし竹取はそれに加え,ところどころに当時の宮廷へのあまり品の良くない皮肉が含まれている。求婚者の五人にはそれぞれモデルがあり,それぞれの失敗は,彼らを風刺したものである(後代においてそれが理解されず,単に面白い物語として享受されたところなどは,もともと政界の風刺話でしかなかったガリバー旅行記に似て面白い)。日本文学はパロディから始まっている。源氏をはじめとするその後の物語文学はすべて竹取の手法を真似たパロディであるし,物語以外の文学の流れは中国の文化の影響が強い。

とはいえこれは日本に限った話ではなく,ホメロスやギルガメシュ叙事詩など,多くの国において最初の文芸は神話や伝説のパロディである。これもまた特別なことではない。口承の文芸,昔話や伝説は,そもそもコピーされることでしか伝達されない性質のものである。当時の人々にとっては,普段は口伝えで披露してきた話を,たまたま文字を覚えたので紙に書いた,それだけの話であった。紙に書いた話が面白かったから別の紙に書き写し,その作業が困難であったから印刷を覚えた。やがて今ではその印刷した本が売れて,勝手に印刷されては儲けに響くから版権が生まれた。文芸と著作権の歴史とはそういうものである。本来的には,著作物は無限に模倣されてしかるべきであり,それが自然で推奨されたことだった。

それがなぜ現在は規制され問題視されるかといえば,人はに著作物を誰かに伝えたいという気持ちがあれば,その伝達をコントロールしたいという欲望もある,ということだろう。

自分の書いた物語が誰かに読まれるのは素晴らしいことだ。しかし,それが知らない誰かの作品として並んでいるというのは気持ち悪いだろう。あるいは自分の書いた覚えのない作品が自分のものとして並んでいたら? あるいは隠しておいたはずの詩が出版されたら。本が出ても,その売り上げの一端も手元には来ないとしたら。ビジネス面での訴訟も,これの延長と考えていい。自分のところで育てた作品,盛り上げてきた購買意欲,次なるビジネスチャンス,それを邪魔されるなんて,と。

だから管理したい。どれだけの人が読み,不当な方法で読んでいる者がいないか,勝手に利益をあげている人間はいないか。“自分の”物語を,誰かに汚されてはいないか。自分が受けるべき賞賛を,誰かに奪われてはいないか。著作権の根本とは,表現の管理への意思だろう。本来はそこら中に飛んでいってしまう「言葉」というものを,なんとか鎖をつけて飼い慣らしたい。それは不遜な考えだが,しかし理解できる感情でもある。

図書館という仕事は,この管理への意思の垣根の上に立っているサービスである。今日もある図書館から「図書の中の論文の文献複写は受けられません」というクレームが届いた。実は著作権法を読むかぎり,論文集のような一冊の図書に複数の論文の書かれているタイプの本の場合,そのうちの特定の論文全体のコピーは,著作権者の許諾がないかぎり行うことはできない。著作権法を厳密に執行する場合,百科事典の一項目でさえも,その全体をコピーすることは本来は許可されていない。雑誌の論文の場合は例外的に可能であるが,これは元々「雑誌のバックナンバーは入手が困難であるから」というだけの理由で,バックナンバーの入手可能な雑誌であるなら論文単位のコピーも断るのが本当だったりする。新聞などもさいきんは過去の記事を入手する手段がいろいろあるため,新聞記事のコピーも禁止される可能性がないわけでもない。
とはいえ,おそらくほとんどの図書館では,論文集中の論文のコピーも,百科事典からのコピーも,バックナンバーの入手可能な雑誌のコピーも認めている。それはそうしたニーズがあるからであり,またその行為が,著作権者に不当な不利益を与えるものではないと認識しているからである。
著作権法は上記した「表現を管理したい感情」を,法的に保護する法律である。図書館員もまたこの法律を尊重し,「表現を管理したい」という著作者の感情を認め,それを保護する。
だが同時に,図書館員は利用者=読者の「本を読みたい感情」,上記の比喩でいうなら「表現を自分の中にコピーしたい感情」をも認め,それを保護している。また,著作者が本来もっているだろう,そして著作物自体が望むだろう「読まれたい」という気持ちを保護する。本を「読む」行為には当然コピーの再生産も含まれる。自身の中の不完全なコピーでなく,完全なコピーを所有したいという感情は,ある意味「正確に著作者の表現を受け入れたい」という気持ちの表れと好意的に解釈することもできるだろう(まぁ,“買え”ばいちばん丸く収まるのだが;)。
図書館はこれら双方にはさまれた機関といえる。一方は読みたいといい,もう一方は勝手に読ませるなという。著作者の権利は確かに著作権法に保護されている。しかし,読者の権利を保護する機関こそ図書館である。そして著作自身は,おそらくは読まれることを欲している。これら両者にはさまれながらも,本と読者との出会いを招き,やがてより多くの本や表現の生まれることを願って,図書館員は,少なくとも自分は仕事をしている。

著作物は,表現は,芸術は,“本は”,
読まれなければ,コピーされなければ,模倣されなければ,
「生き続ける」ことはできない。

本を書く行為は,子供を産むことにしばしば例えられる。
子供を管理したいという気持ちはわかるし,それが正当である場面は多い。子供が危険な世界に関われば,彼の可能性が閉ざされるのではないか。そういう心配は,決して悪意ではない。
だが,もっと自由でもいいのではないか?
子供は勝手に生きていくものであり,むしろそうであるからこそ,子は親の想像を超えた存在になって,親も想像しなかった仕事を果たしていく。そういうものではないか。

「耳をすませば」は幸福な場所にさ迷いこんだ子である。彼は宮崎氏という得難い「第二の親」を得て,映画というもう一つの生を与えられた。しかし,彼ほど上手ではなく,つたない表現でしか,本来の親に認められない形でしか再生産をできない「第二の親」はたくさんいる。彼らの子はいつまでも日陰でしか遊べないのか。
「のま猫」はむしろ,多くの親に可愛がられた子猫が,突然誰かに首輪をはめられた事件だろう。モナーに新しい兄弟ができた,と喜んでやることもできたのだろうが,やはり金銭と絡むと難しいものらしい(まぁ,あれは完全に既に公有物化した著作物の二次創作であるから,著作権や商標権を主張するのは難しい。FLASHや個々の絵自体には一応著作権あるけどねえ)。
クローンのような子しか生まれない電子コピーを同列に考えるのはどうなのか,とは自分も思わないではないのだけれど,著作権者の怠慢によって表現を伝えられない人々に,表現を伝える方法がそれしかないのなら,ある程度は許容されてもよいのかな,とは思う(たとえば絶版レコードのMP3やら,関東ローカル番組の動画やら,マイナ言語のファンサブやら)。前も感じたが,著作権者には著作物を管理する権利と共に,それを求める人々に届ける義務もあるんではないかなあ。ビジネス的にそれができない場面を,無償で違法と知りつつ実行している人々は,たとえ犯罪者であってもヒーローであると思うよ。でも本当に欲しくて手に入る物は買えよ。

「耳をすませば」は図書館を中心にした物語だが,その在り方についても,図書館的に(というか,表現全般に関わるすべての人にとって)けっこう重要なのではないかな,と以上のように感じたわけでありますよ。
しかし原作の「耳をすませば」ほんと面白いですな。自分の印象では映画より面白かった。でもそれは映画を既に見飽きてたせいで,案外改めて映画を見直したらまた評価が変わるかも。どうでもいいけど,「耳をすませば」って二種類図書館出てたのだなー(県立図書館と学校図書館)。映画はどうだったっけ? 気づかなかったわ。

投稿者 Myrmecoleon : 23:59 | コメント (365) | トラックバック

2005年06月12日

『内部被曝の脅威』

肥田舜太郎,鎌仲ひとみ著 『内部被曝の脅威』(筑摩書房,2005.06 ちくま新書)

test

原爆・原子力被害系の資料が欲しかったので。ちょうどよく新刊。
兵器としての原爆の破壊力だけでない脅威。核兵器や原子力の扱われるすべての場面で起きている悲劇。想像以上の悲惨さに戦慄します。

どこまで著者の主張が正当なものか,というのは疑いつつも,国ぐるみ科学者ぐるみの偽装があちこちで行われているという主張は,ただの陰謀説以上の説得力がある。少なくとも劣化ウラン弾などによる健康被害は現実だろう。言語危機の件もそうだったけど,知るべきことが知られていないという恐怖を改めて感じる。

もう少し資料が欲しいかもしれない。そもそも原爆の落ちてからの一年,両都市の周囲で何が起きていたのか。その直後の凄惨さは知られていても,救助のために数日いただけの人々までも次々と死んでいったという事実は正直あまり知らなかった。原爆に関する医療の情報がアメリカによって規制されたというのも知らなかった。きっとまだ知るべきことはあるだろう。
社会運動をする気はないけれど,知るべきことは知ろう。そう,改めて思った一冊。

投稿者 Myrmecoleon : 09:42 | コメント (350) | トラックバック

『僕たちの終末』

機本伸司著 『僕たちの終末』(角川春樹事務所,2005.06)

test

機本伸司氏の新作。『神様のパズル』以来,注目してる作家さんの一人で,二作目の『メシアの処方箋』も悪くなかったので期待しておりました。
「宇宙の作り方」「救世主の作り方」の次は,「宇宙船の作り方」。危機的状況におかれた地球を脱出するために,国なんか頼れないと宇宙船建造を模索する物語です。

あれですね。主人公が徹底的にへたれなのが逆にリアルで。こんな大胆な計画は大馬鹿野郎にしかできないというのが妙に納得。「国」というのが徹底して愚かに書かれてるのもなんだかなあ。まあこんなもんかもしれないが。

宇宙船を飛ばすのに,法であるとか政治であるとか,そういったファクターに散々妨げられる感じは氏の作品らしくてよい。現実志向のSF。技術の問題じゃないよなあ,実際。

キャラの中で良かったのは岡本さんかなあ。というか,彼と宮西さんが一番仕事してるよ,うん。主人公は好き勝手やってるだけだし。

ただ,今回は主要メンバーが増えすぎてしまったせいか,ドラマが少し薄いかな,という気がする。だから作品としてはいまいちな印象。まぁ,前二作と比べなければ十分良作の部類なんですが。

ああ,また『神様のパズル』読みたくなったなあ。

投稿者 Myrmecoleon : 09:01 | コメント (362) | トラックバック

『ネットの中心でゴッゴルと叫ぶ?』

井口稔、Su-Jine著 『 ネットの中心でゴッゴルと叫ぶ?』(秀和システム,2005.05)

test

ちょいまえ,ネットで少し騒ぎになっていた「ゴッゴル」の件の公式なまとめ著作。Googleで「ゴッゴル」と検索して,上位に来たサイト主に賞品プレゼント,という企画でした。最近では第2回で「デースケドガー」とかやってたらしい(もう終わってます)。
主催サイトはこちら → SEO-Association

わりと騒ぎになってたので,ちょっと気になって読んでみました。

あれですな。SEOって,ネタよりもhtmlの書き方よりも,如何に広くたくさんの人に支持を得られるかによるんだなあ,と。参加表明だけでいい順位につけてる人もたくさんいたようだし。
どちらかといえば,トラックバックとか,相互リンク依頼とか。

正直,あそこまでのイベントはもう起きないんじゃないかなと思うので,
この手の出来事について知るにはこの本は最適かもしれない。
当時に気になってた方におすすめ。

投稿者 Myrmecoleon : 09:00 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月27日

『電波的な彼女』

片山憲太郎著 『電波的な彼女』(集英社,2004.09 集英社スーパーダッシュ文庫)
『電波的な彼女 ~愚か者の選択~』(同,2005.03)


test
今やっているひぐらしもそうだけど,「デンパな彼女」ってなんだかこの頃のブームですよねえ。精神に問題があるけれどかわいい,いや,精神に問題があるからこそ可愛い? ネコミミ・メイドに続いて今度はデンパってかんじの。可愛いのに何をするかわからない,守ってあげなきゃ路線でロリの延長だとか分析する向きもありそうですが。 流れとしては,ライトノベル方面での源流はやはり『雫』でしょうかね。もう少したどると大槻ケンヂの『オモイデ教』とか。というか,彼の体験談の中にあったなあ,デンパなかわいい先輩との会話が。さらにたどると文学とかサイコホラーとか? まぁ,「電波」という語の元は多分,大槻さんあたりでよいのだろうなあ。

まぁ,それはともかくとして,デンパ萌えを前面に押し出した作品がこちら,『電波的な彼女』です。作品の出来はわりと良。ミステリとしては物足りないところがあるけれど(犯人,あらすじ読んだ時点でわかりましたよ,って推理じゃないけどw),物語としてなかなか。このタイプの小説ってアレですよね,デンパな少女の痛さより,まともなはずの主人公の行動に痛さを感じる。「ああ,うしろうしろ,ばかあ」と叫びたくなる感覚。
しかし良かった。何がいいって,真犯人さんの最後の暴れっぷり,壊れっぷり。加えてそのあたりの文章描写。「痛み」の表現っていいよなあ(ひぐらし綿流しのラスト手前が少し流れ的に似てたけれど,文章だけならこちらの方が秀逸)。
残念だったのは,その壊れっぷりがああして結末してしまったことだろうか。確かに自殺よりは良かったんだけどねぇ。なんかもうちょい・・・・・・ううん。


test
続編の「愚か者の選択」に関しては,まあ話としては良く出来てるとは思う。似たような事件にしてしまったらそれこそ食傷だし。ただし,どうしても新キャラの紹介だけに終わってしまっている。もうちょいどうにか出来たかなーという。前作のキレ味がにぶっているというか。今回の新キャラも,前回の子と違ってどうもステロタイプだし。生々しさが薄い。 ただ,これが次回作以降への布石として上手く動いてるなら,間をつなぐものとして一種価値はあるかもなあ,と。

というわけで三作目を期待。でも今作の路線だと,あんまり面白くない方向に向かいそうな・・・・・・一作目犯人の再登場を願う,かな。

(このエントリは6月4日に書きました)

投稿者 Myrmecoleon : 00:00 | コメント (30) | トラックバック

『お兄ちゃんはプログラマ』

藤山哲人『お兄ちゃんはプログラマ』(技術評論社,2005.05)

お兄ちゃんはプログラマ? SE業界の新人さんやプログラマ志望の人々に捧げる入門書。いやマジで。 ちょっと関わる仕事やってる関係もあり,八重洲ブックセンタでみかけて立ち読みして,思わず買ってしまいました。つーか,技術評論社までこういう本だすのか。。。。。。

話としては,プログラマ一年生の主人公が入社してから一開発を終わらせるまでの話ですね。そこに萌え風味・オタク風味。非常に読みやすく,またタメになります。ああ,開発ってこういうふうにするのかー と風景が見えていいかんじ。

でもいいよねー,ちゃんと作業管理してくれる先輩とかいて。
わたし,一人で企画も外部計画も内部計画も開発もデバックも運用もクレーム処理もこなしてますぜ。。。(たいしたプログラムじゃないけどさ;)

そういや,ちょっと痛かったのが「初級シスアドなんて資格として認められないぞ?」というところ。プログラマ業界では絶対履歴書には書かないらしい。基本情報技術者はそうでもないのかな,書いてなかったが。
まぁ,今回の試験で基本情報技術者にも受かったのですが(もち一発),それまで初級シスアドのみで仕事してたのですよね。まわりは勘違いしてなんでもできると開発をバンバン押しつけてたけれど・・・・・・そうだよなあ,シスアドは開発者の資格ではないよな;;

お兄ちゃんはプログラマ

(このエントリは6月4日に書きました)

投稿者 Myrmecoleon : 00:00 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月22日

上遠野氏新作短編2作

上遠野浩平著『アウトランドスの戀』,『ポルシェ式ヤークト・ティーガー』
~ 講談社MOOK『ファウスト』Vol.5(講談社,2005.05)より。

test

『ファウスト』最新号掲載の上遠野浩平氏の短編2作。2作で一編,といった作品。
上遠野浩平氏はわりと気にしている作家で,以前彼の作品のファンサイトにいりびたっていた時期もある。必ずしもよい作品を書いているという印象はないが,作品間のリンク構造を遊ぶのにハマってしまい,高校以来ずっと読み続けている。

今回の作品は,氏の代表的シリーズ(と称されている)「ブギーポップシリーズ」と「事件シリーズ」の両シリーズをつなぐ作品で,以前は雑誌『メフィスト』で似たような短編が,事件シリーズの新刊発売に前後して掲載されていた。今回のも同様の扱いで,少し前に出た『禁涙境事件』の宣伝的なものと思われる。

作品のあらすじとしては,この世界には存在しないはずの「技術」を身につけている男と,この世界においては最強と言えるだけの強さをもった女の恋物語。二人の物語が,二人の視点から,二つの作品として描かれている。世界を震撼させるだけの力をもちながら,にぶくノロマで,ぎこちない恋愛しかできない二人の物語。

作品としては淡々としているばかりで,エンターテイメントでなければ,ブンガクしてもいない。ただ,一つの出来事を複数の視点で見せることで意味を重ねる作風が例によって効いている。もっとも,物語としてはどうも途中で終わっている印象を覚えるので,おそらく事件シリーズの次巻『残酷号事件』とセットになる話が完結編になるのではないだろうか。
あと,「アウトランドス」はネーミングが総じてフランス語で,「ポルシェ式」ではドイツ語というのは遊んでていいなあ,と思う次第。

クロスオーバ,リンク的な要素を探してみると,まず『禁涙境事件』の第一の事件で登場した赤ん坊がある。また,時系列的にいえば以前『メフィスト』に掲載された「ギニョールアイの城」の続きにあたる。加えて「ポルシェ式」では過去にシリーズに登場した人物が一人と,未だ名前は出てるものの作中では一度も登場してない人物の話が語られている。
(まぁ,上遠野作品の“おっかけ”以外には用のない話ですが)

今回のファウストにはその他,上遠野氏関係の対談と批評が載っているが,それはまた今度。しかし,少し前の活字倶楽部といい(あ,買ったけどまだあんまり読んでない)何が起きてるのだ上遠野氏? むしろマイナーな作家だと思ってたのだが。

(このエントリは5/28に書きました)

投稿者 Myrmecoleon : 00:00 | コメント (444) | トラックバック

2005年05月21日

『カーニヴァル化する社会』

鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』(講談社,2005.05 講談社現代新書)


test

旅行前に買い込んだうちの一冊。ほかは下記。この本は行きの車中で読む。内容は・・・・・・正直よくわからない。部分部分についてはよく飲み込めるところがあるのだけど,全体についてのまとまりがつかない。

一つの問題として,自身が社会学的な言説をあまり理解できない,っていうのがある。民俗学的な方向では肯けるアイディアはあるのだが,思想や社会学分野での言説をあまり説明せずに提示するところがあり,論理がよくつかめない。
加えて,そもそも著者自身が考えを十分消化し切れてるのか? とも疑問に思う。紹介されている言説自体はなかなか面白そうなのだが。

具体的な内容としては,

思想的な目的を欠き,ネタ的コミュニケーションのみを目的とする,社会の「カーニヴァル化」。
「私は私」と他者視点の自己イメージと自己の人格を切り分けることから来る「分断された自己」。
若者世代の就労問題にある「やりたいこと探し」と,躁鬱的な「ハイ・テンションな自己啓発」でしか維持できない労働状況。
自己の情報を外部の携帯電話やネット上のサービスにゆだねることにより,自己の意思決定を外部データベースに任せるデータベース依存。

といった感じ。

ひとつひとつの発想についてはこれはと思う要素もある。たとえば「やりたいこと探し」や「ハイ・テンションな自己啓発」については自分にも覚えのあるところであるし,データベース依存(著者は「監視社会」と言っている)は,自己知識外在化の傾向とみると,なかなか面白いところがある。

なんだけど,どうにも全体がはっきりと見えてこないなぁ,と思われるところ。「カーニヴァル化」よりも,データベースの方向のみでまとめた方がよかったのじゃないだろうか? まぁ,今後の活動を見守るとしましょう。


買った本:
福井健策『著作権とは何か』(集英社,2005.05 集英社新書)
山崎敏之『テレビアニメ魂』(講談社,2005.05 講談社現代新書)

(このエントリは5/28に書きました)

投稿者 Myrmecoleon : 00:00 | コメント (4) | トラックバック

2005年05月20日

『絶滅していく言語を救うために』

クロード・アジェージュ著『絶滅していく言語を救うために』(白水社,2004.03)

test
「何事にも狂人が必要だ」 ―バン・イェフダ

前述したとおり,『消滅する言語』との関係で読み進めていた本。残念ながら時間がなく何章か読み飛ばしたけれど,なかなか面白かった。

『消滅する言語』が新書判であるのに対してブ厚い単行書である本書は,前者に対して具体例が豊富なところに特色がある。言語の衰退の推移,特性をもった言語の詳細な紹介,さまざまな言語の死の事例。『消滅する~』で簡単にしか触れられてなかった事象も多少詳しく書かれている。まるで触れられていなかったラテン語の衰退史や各国の言語支配状況など,なかなか興味深い事項もあった。

ただし,構成的なまとまりという点では『消滅する~』の方に軍配があがる。「言語危機」の入門書としては『消滅する言語』,さらに深めるために『絶滅していく言語を救うために』などを読んでいくとよいかもしれない。

また,本書の特徴としては以前のエントリーでも書いているように,「言語の再生」に注目している点があげられる。具体的にはヘブライ語の復活のことである。バン・イェフダ氏らによるヘブライ語復活の活動はなかなか示唆されるところがあった面白かった。「狂人」と自称するまでの彼の強い意志なしにはあの偉業はなされなかっただろう。なかなかカッコイイ。

「消えても復活できるから,言語の問題は二の次」なんて馬鹿なふうに解釈されると困り者だが,言語の復活というのは可能なのかもしれないな,とも思えた。それはあのヘブライ語の復活さえも微少に思えるほどの努力が必要な事業だろうけれど,必ずしも不可能ではないんだろうなあ,と。
言語が生き物だとしたら,一度生命が絶たれた後に再び息を吹き返した言語は,人々の熱意によって生命を与えられた新たなる生命だろう。クローンなどの問題もまた同じように見ていいのかもしれない。失われた生命と再生した生命とは,異なるものでありながら連続した個体。たとえばかつて,死んだ幼児の次の弟/妹をその生まれ変わりだと信じたことを思い返せばいい。死んだ言語をそのまま甦らせるのは不可能であっても,生まれ変わり,新たな母語として甦ることは可能なんだろう。それは,既に自らの母語を失った人々にとっての,大きな希望ではないだろうか?


と,以上が本書を読んでの感想。
借りた本だったので以下とあわせて返却。いずれも時間がなくて十分に読めなかったのが残念。

L.K.オブラー,K.ジュアロー著『言語と脳』(新曜社,2002.06)
大津由起雄ほか著『言語研究入門:生成文法を学ぶ人のために』(研究社,2002.04)

(このエントリは5/28に書きました)

投稿者 Myrmecoleon : 00:00 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月19日

『からだの文化人類学』 メディアとしての肉体

波平恵美子『からだの文化人類学』(大修館書店,2005.03)

test

医療人類学関係の有名な著者の作。「からだ」に対する認識の変化を日本の事例を中心に考察している。

序盤の「やせ症」(拒食症等)に関わる記述が興味深かった。
現在の自分の肉体と,自分の理想である「本当の身体」の齟齬に悩み,“食べない”という消極的な活動によって安易な解決を見つけようとする。その結果,確かにやせることはできるのだが,やせる過程での“達成感”に中毒的な渇望を覚え,絶食を繰り返す。やがて“食べる”という行為の意味を見失い,食事を楽しいと思えず,“食べられない”という病気になってしまう。

「身体がある」ではなく,「身体をもつ」。肉体を精神と不分離な総体として考えることができず,肉体を,デザイン可能な対象,インテリアや衣類(あるいは「アバター」)のようなものとしてとらえてしまうことの弊害。それが,食事の軽視や誇大視につながり,安易に食べないことを選択したり,逆に無農薬野菜に執着したり。その状況の結果として,「やせ症」のような「食べること」を失った人々が現れるのだろう。

拒食の子供との食事というのは非常に辛いものらしい。彼らは食事の喜びを感じる能力を失い,既に「何のために食事をするのか」という命題が常態となる。まるで自殺志願者が「何で自分が生きているのかわからない」と考えるような存在の疑念。彼らが食事を“試みよう”とすること自体が,会食者の食事に対する感覚に挑戦している。目の前の食事を不味そうに嫌そうに食べる人と向かいあって,美味しく食事することなどできない。

「食べること」,それはケータイなどと同じく一つの「メディア」である。それは身体に関わるメディアであり,人と人とのコミュニケーションにとっては,かつて無くてはならない存在だった。だが,かつてのような肉体と肉体でのコミュニケーションを失った現代人,「肉体」というメディアを失った人々にとっては,もはや現実に会い,一緒に食べることよりも,ネットやTV,ケータイの方が重大事になる。やがて食事,あるいは性行為などさえ,自分の必要とするものを手にするための手段という視点で見るようになってしまう。こうしたところに,現代文化の病理の一因があるように思える。

期待していたのとは別の方面だったが,面白い本だった。

(「やせ症」なんかは,前読していた『ハサミ男』とも少し絡むね。ネタバレになるけど)


こうしたことをふまえると,下のリンクのような動向があるのはいろいろと興味深い。
あと2,3年もすれば,ネットを通じてチャット相手と「握手」できるような時代も来るのだろうか?

通話相手と握手のできる携帯電話(一つのアイデア)
触覚インターフェース『ハプティックス』の可能性(触覚インターフェイスの現状)
出会い系サイト+サイバーセックスの新サービス(身体コミュニケーションとしての“サイバーセックス”)
The 3Feel Online(セックスをモチーフにしたオンラインゲーム)


マルチメディア・インターネット事典:ハプティックス
三次元感触インターフェイス(広告)

投稿者 Myrmecoleon : 06:45 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月17日

『ハサミ男』と主観の芸術

殊能将之著『ハサミ男』(講談社,1999.08 講談社ノベルス)

test

『ハサミ男』,読了。いや参った。思った以上に面白かった。
叙述トリックという言葉があるが,むしろ主観トリックというべきなのかもしれない。

小説,あるいは「語り」でもいいが,
言語による作品は,それが「主観」と切り離せないところに味がある。
フルコピーではないにしろ,
「視点」を主体とする映画より,「状況」を主眼とする舞台より,
「主観」を首座とする文芸こそが,もっとも人の精神を表現しているものと感じる。
『ハサミ男』は,そんな気持ちにさせてくれる小説だった。

トリック前までは日常の中の錆び付いた狂気めいて,不思議な感覚を感じていたが,
トリックを開いてみたら喜劇だったなあ。
そう思わせないほどに,自然に構成が上手い。独特の空気がある。
いや,良かった。

投稿者 Myrmecoleon : 21:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月14日

読書記録 5/8~5/14

クロード・アジェージュ著『絶滅していく言語を救うために』(白水社,2004.03)
(読書中)

『消滅する言語』を読んだ関係で。まだ最初の方しか読んでいないけれど,似たような主題ながら立場が微妙に違うのが感じ取れる。
『消滅する言語』では,言語の死の予防が主眼で,失われた言語はまず戻らない,というのが立ち位置であったように思える。それに対し,こちらではソシュールのラング/パロールの分類を出して「パロールの死は言語の死ではない」と主張し,現代ヘブライ語の再生を多く紹介している。こちらの立ち位置は予防<再生であるように感じる(まだ途中だが)。

自分は,確かに言語の再生はありうると思うのだが,それが本当の意味での「再生」でありうるのかについては疑問が残る。確かに,ヘブライ語は見事に復活した。けれど,それは複数の一神教の原典であり続けたというヘブライ語の特別な事情によるものではなかったか,などとも思うし,そうでない言語が再生を遂げられたとしても,言語にとって重要な部分が欠けたりはしないか,とも考える。

著者は「話者の消失はパロールの死であり,ラングの死,つまり言語の死ではない」とする。これは生物には見られない,言語独特の性質であり,だから生物の死とは違い,言語は再生することができると言う。しかし,生物学の立場からいっても,「ある種の生物の絶滅は,種の絶滅ではない」と似たようなことが言えないわけではない。実際のところ,現実に歩いている諸生物は遺伝子の発現,表現型に過ぎない。ラングとパロールの関係は,遺伝子と生物体との関係に等しいとわたしは考える。たとえ生物体が絶滅しても,人類は遺伝子からそれを再生成する方法を見つけるだろう。
だが,それで種が再生するわけではない。生物は生態系の中で生きていくものであり,ある生物の失われた生態系は,二度と元の環境には帰らない。あるいは動物社会の生活パターン,鳥やイルカの歌声,それらはある程度は解剖学的特徴に起因するものであっても,ある程度学習的な方法によって身につけているものである。人類とも違う,彼ら独自の教育法によって引き継がれていく知識が確かにある。これは遺伝子から再生成されただけの生物体には決して身につけえないものだ。単に標本をとるばかりではなく,科学者たちが生物の絶滅を防ぐ活動を続けているのは,そうした部分もある。

言語の再生についても同じ問題がある。文法と語彙,発音をすべて記録してあったとしても,そこに人々の生活感覚が伴わなければ,言語として復活することは難しい。また,かつて話されていた時期と再生した時期では環境も違う。かつて栄えた文化は言語の消失とともに衰退しただろう。そして新たな文化を古い言語が表現していくのは非常に困難であると思われる。時代に応じて変化していった言語でなければ,その時代の文化環境には適合しえない。一度でも死んだ言語は,二度と同じ血と肉を持って甦ることはできない。

そう,思うのだけれど,自分は現代ヘブライ語の再生の事情などについてあまり知らない。自分の批判が有効なものであるか,的外れなものであるか,あるいは既に解決策が存在するのか。読んでいくのが楽しみである。


逸身喜一郎著『ラテン語のはなし 通読できるラテン語文法』(大修館書店, 2000.12)

図書館のカウンター当番中に見つけた借りた本。ライトなラテン語入門書。ラテン語の名句を紹介しながら,ラテン語の文法,現代の諸言語への影響,ローマ時代の思想などについて触れていく形式。まずラテン語というのがどういう言語なのか理解したい人にいいかもしれない。

非常に興味深かったのが,「語順自由」というラテン語の特徴。

英語やフランス語では,文章は必ず(例外はあるが)「主語・動詞・目的語」の形式をとります。
動詞の前に来るのは動詞を修飾する助動詞や副詞と,主語を表現する名詞句のみ。
これらの言語は,動詞や助動詞の位置を変えることで疑問文や命令文を作りますが,
そのために「動詞・目的語・主語」のような変形は許されていません。

日本語は多少融通が利いて「(主部等)・述部」の形式になります。述語(述部)が(正式の文では)必ず最後に来なければいけないという鉄則はありますが,それ以外は助詞の付け方によってどのような順序においても文として成立するという自由があります。

これらに対し,ラテン語では一文の中のどこにどの単語があってもかまいません(前置詞など,一部の例外はある)し,それでも文意がとれるという特殊な性質をもっています。英語でいえば,

This is the white book. を,
book this the is white. などのように適当に並べても意味がとれるようになっています。

なぜこれが可能かというと,英語では複数形・過去形・過去分詞などにしか残っていないような語の変形が,ラテン語ではすべての単語について存在しているためです。たとえば名詞・代名詞・形容詞は複数と単数,三つの「性」,六つの「格」の,2×3×6の36通りの変形があります。動詞は英語にもある態・時制・人称・数,そして直説法や接続法などの「法」の変形があり,すべてをかけると100以上の変形があります。
ラテン語ではこの無数の変形により,どの語がどの語と関連するかどうかがわかるようになっています。形容詞は修飾する名詞と同じ変形をするようになっていますし,動詞はどの格の名詞をとるかがある程度決まっています。このため100%確実とは言えませんが,多くの場合文の解釈を一意化することが可能なわけです。

最近,生成文法(人類共通の「普遍文法」があると考え,すべての文法はそこから生成可能とする学説)も少し勉強してるのですが,言語の多様性を考えるにあたっては,動詞を前に置く英語と後ろに置く日本語,そしてどこにおいてもかまわないラテン語と,色々知っておくのは面白いなあ,と思った次第。ローマ時代に無数の詩や文学が編まれた背景にも,ラテン語の語順自由な性格なんかが影響してるんでしょうねえ。

この本はそういう,ラテン語の導入書としてはなかなかよい感じでした。
ただ,マジメに学習するのにはちょっと辛いので,そのつもりなら別の学習書が必要ですね。
自分もラテン語勉強したくなってきたなあ。


原秀則著『電車男』1 漫画版(小学館,2005.04 ヤングサンデーコミックス)

テキスト版『電車男』は,書店で立ち読みして面白いと思い,ネットでログ読んで疑いつつも感動した“作品”です(書籍版を通読したことは無し)。後日いくつかの検証サイトに目を通して,あきらかに不自然な点があることを確認し,現在のところクロに近い灰色ぐらいで理解しています。以降の「Web→出版」運動激化の要因として,それらに対するダーティな言説の原点として考えると,なかなか意義深いものがありますね(近頃だとココログ出版とか)。

まぁ,そんな作品なので漫画版もあまり期待はしていませんでした。連載読んでないし。でもあれですねぇ,そんな作品だとわかっていながら,読んでいてニヤけた笑いをかみ殺してしまうのはなぜだw ううむ。

仮に電車男のストーリーがほぼフィクションだとしても,あのテキスト群は(ある種の)読み手に妙な感動を覚えさせるようなところがあるな,と思うのです(漫画版については描き手の技法にも依存してると思いますが)。“作者”が文豪だとは言いませんが,口承文芸的な場(2ちゃんねる)を通じて生成された一種の文学だと考えてやった方がよいのかもしれません。そういう意味では『電車男』は評価できるし,素晴らしい“作品”である,と見ていいのではないでしょうか。

しかし,映画化にTVドラマ化かあ。。。
なんだか様々な誤解が世間を蔓延しそうな予感バリバリだわい。


中里融司著『狂科学ハンターREI』 1-5巻(主婦の友社,1996.06-1999.01 電撃文庫)

科学の歴史の中には,その成果が認められず,正当な学問系統においてその後継者を得られなかった知見,命題が多数ある。その多くは,実際のところ妄念から来る誤りに過ぎないと判断されているが,そうではなく,彼らの思想に世間がついていけなかった,あるいは危険を覚えた者が研究を妨げたのだ,とそのように言うものも多い。
疑似科学,オカルト,トンデモ本,ブードゥーサイエンス,エセ科学,そうした領域に投げ込まれているさまざまな研究は,無数の科学的な反証を与えられながらも,依然として多くの人によって信じられている。また,信用はしないでも,そうした研究の動向を面白がってみるものも多い。なぜ人々がエセ科学を信じるのか,どのような構造があるのか,それに対する心理学・民俗学的な考察は非常に興味深い。
以前,自身もこうしたところに引かれて,科学と疑似科学,および俗信を交えた上での知識の伝承の問題について考察してみようと思ったことがある。また,それとは別に,魔法や超能力と並んでそうしたトンデモ科学が活躍するようなフィクションを考えていたこともあった。今回この本を読むことにした契機はそういった縁から“気になっていた”ことにある。

この著作は,そうした疑似科学的な研究が真に有効なものであったという設定の元,狂科学・秘宝科学とも表現されるその技術を有する秘密結社と,そこから離反した主人公との対立を描く仮面ライダー的な小説である。結社は狂科学の研究のため,多数の人々の人生を歪め続けてきた。主人もまたは結社の研究のために姉を失い,そうした研究すべて,狂科学を憎んでいた。しかし,その研究によって生命を得た愛らしい少女との出会いにより,狂科学,逸脱した科学であっても,人々の理想を追い求めた営為の結晶であり,それは単純に否定すべき事項ではないのだと気づく。

善悪の単純な対立ではなく,媒介者を置くことで弁証法的な運動に向かうというのは基本をふまえていて好感は持てた。ただ好みの問題だとは思うが,文章や演出,構成についてはあまり評価はできない。「不釣り合いな胸と腰」とか記号的な表現はどうにかならんものだろうか;

ちなみに,好きなキャラはオーギュスト公爵と月形さんですね。
冷静だが心根は熱く,的確に行動しクールに一番いい見せ場で登場する公爵と,
頭も心もひたすら熱く,ひたすら暴走し,物語上も不当な立場をしいられ続けた月形さん。
かっこいいですお二人さん。
ほかは正直どうでもいいや(ぁ

投稿者 Myrmecoleon : 14:30 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月07日

読書記録 5/3~5/7

書いてないなあ,ブログ(ぁ

まず,書くことから始めよう。うん。GW寝てばっかだしな;

朱鷺田祐介著『クトゥルフ神話ガイドブック 20世紀の恐怖神話』(新紀元社,2004.08)

いわゆる「クトゥルフ神話」に関する著作の解説書。解説の中心はラブクラフトの著作群であるが,彼の周囲の作家,あるいはダーレス以降の世代のみならず,現代日本のライトノベルや漫画,美少女ゲームまでを視野に入れた希有な著作。主な作品についての簡単な解説と書誌情報,および日本語で読めるものについてはその掲載図書別のリストがついているため,調べ物などにも有効。
以前,珍しく本を選ぶ機会があったとき(うちの図書館は,司書に選書の権限がないのです)数十冊の本に混ぜた一冊だったりする。やはり学生に食いつきが良かったらしく,本が返却されたところを借りました。「こういうところからも近代アメリカ文学の研究にも入れるんじゃないか」というのは半分建前,半分本音。
というか,ひさびさにクトゥルフ読みたい熱が出てきました。いや,未だにラブクラフト作品完読したことないのですが;

山内昶著『ヒトはなぜペットを食べないか』(文藝春秋社,2005.04 文春新書)

少し前に大学の生協で買った一冊。動機はタイトル。ただ,想像したとおり,大学時代の専攻に関わる著作でした。
世界各地のイヌ・ネコ喰いの事例・歴史の紹介からはじまって,近親相姦のタブーとの相似を解説し,文化人類学者E.リーチのタブー論「境界→タブー」,および日本民俗学の「ケ→ケガレ→ハレ→ケ」説を通して,なぜ現代人が「ペットを食べてはいけない」と考えるのかを説明しています。

かつて人間社会は,社会を維持するための様々な制約,タブーを設け,またそのタブーを解放する祝祭によって,カオスとコスモスのバランスを取り,社会を維持してきました。こうした習俗はやがて文明化,文化化,近代化によって衰退し,現在のような消費と娯楽の嵐が常という社会になり,多くのタブーが失われたのですが,そうした中で近親相姦やペット食についての禁忌のみが,タブーとしての機能を果たしている,というのが著者の論です。

表題の解答は,端的にいえば「ペットは自己(=人間)としての非可食物ではないが,完全な非自己(=非人間,仲間外)でもない,境界的な存在であるがゆえに,食品として認めることを忌避されている」といったところでしょうか。見方としては面白いし,受け入れられるものですね。まぁ,これと近親相姦が人類最後のタブーとかいう見方は誇大だなあ,と思いますが(まだ殺人とか自殺とか色々ありますね)。

大学時代の文化人類学の講義を思い出しましたね。E.リーチとか懐かしい。

投稿者 Myrmecoleon : 19:06 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月02日

『消滅する言語』と図書館員の出来ること。

ディヴィッド・クリスタル著『消滅する言語』(中央公論新社,2004.11 中公新書)

しばらく前に買って積ン読になっていた本。
ちょっとした事情で言語学関係の興味がわいたので読む。


ある言語学者がある言語を話す最後の話者を尋ねると,
彼女は2時間前に亡くなったと聞かされる。そんなことの繰り返し。

著者の試算では,いま2週間に1つのペースで言語が消滅しているという。
単語のレベルの問題ではない。日本語や英語といったレベルでの言語が消えている。
現存する言語は約6000(±2000)。今後100年で,この半数の言語が消える。
その現実,その脅威,その前で我々が何をすべきで何ができるか,その慨述である。

言語危機というこの現象についてまるで知らなかったわけではないけれど,
実際を知ると,やはり戦慄する。

自分のかつての専門である民俗学,たとえば口承文芸研究にも似たような状況がある。
ある地方の昔話を話せる話者は年々減っており,
苦労して見つけた話者も,翌年にも話を聞けるとは限らない。
こちらは言語以上にスパンが短いし,言語以上に重大事とは見られていないだろう。

まして,言語がなければ口承文芸もありえない。
言語の消滅は,
無数の物語の消滅であり,
その背後にある無数の人々の,営為の消滅である。
人々の気質,生活風土,歩み続けてきた経験,
それらと密接結びついたかけがえのない言語。

言語という地盤と引き替えに,
鬱蒼としたジャングルは奈落へと落ちる。


この本に書かれているのは,そんな「言語の死」と必死に向かい合う言語学者たちの意志である。

救うべき話者たちに誤解され,罵倒されていく葛藤。
倒れていく人々を前に,言葉を書き留めるだけという矛盾。
活動の意義さえ理解されず,無関心が機会を踏みつぶしていく孤独。
正義の味方よろしく,助けられる言語は選び取られた言語だけであるという自問。
文化への介入が正しいのか,このまま自然に任せて待つべきではないか,そんな正論さえ,覆しきれない苦悩。
そしてそんな苦悩とは無関係に,
一つまた一つと言語が消えていくという現実。

確かに,紛争・貧困・疫病・圧政・災害,そんな身に迫る脅威と比べて,
言語の問題など,些細なことかもしれない。
言語などは二の次三の次。一冊の辞書より,一斤のパンを。
それはすごくまっとうな意見だろうと思う。

けれど,失われてしまったものが二度と取り戻せないのは,
人の命も,希少な動物も,そして人の営為の果てにある言語も同じである。
たとえ幾つもの問題があるとしても,
自分は彼らのような活動を,大いに支持したい。


さて,では言語の危機を理解したとして,では我々に何ができるのだろうか?
もちろんこの本にはそのことについても書いてある。

たとえば,言語の死を引き起こす明確な原因の一つが貧困である。
話者たちの社会に経済支援し,産業などを盛り立てていくことが有効である。

また,危機言語話者たちの意識の改革も重要だ。
ときに自身の言語に否定的であることがある。
彼らに語りかけ,その認識を改めさせていくことも大事だという。

あるいは,言語教育のための準備。
内部からの,言語を教育でき,あるいは研究できる人材の発掘と育成。

もちろん,政策や法制度に対しても活動していくことが大切だろう。


だが,こうしたことはそれなりの訓練を受けた言語学者であったり,
政治的・経済的な力のある人間しかできない作業である。
ここで,自身の図書館員という立場をふまえて考えてみるとどうだろう?

たどりつくのは,この問題が人々に理解されていないという現実である。
言語危機の問題は,言語学者と,一部の運動家や知識人,
そしてたまたまそれを知った自分のような人間くらいにしか共有されていない。
それは教育やマスコミなどの問題でもあるのだろう。
そして勿論,我々図書館員の責任でもあるのかもしれない。

だから,この問題を知らせるということ。
こうした問題を理解し,どのような資料があるかを把握し,
それを利用者の目に触れさせ,提供していくということ。
それが図書館員にできる唯一の,そして最大の貢献であると思われる。

無論,現実の危機言語と近い距離にある図書館であれば, もっと別の貢献もありうるだろう。
単に発行された文献を蓄積するのではなく,言語学者などと協力し,
その言語の記録を発掘し,また新たな記録を作成し,地域資料として提供していくことも重要である。
もっと広い幅で考えてみれば,地域の方言を集めるような業務も,
こうした危機言語への予防の一端であるのかもしれない。

近年,図書館でも「多言語サービス」というものが言われている。
危機言語に対する取り組みは,その延長,あるいは一部といえるものかもしれない。
その意義を理解し,実行していくことが大事だろう。

この本を読み,そんなことを考えた。


関連リンク:
wikipedia: 危機に瀕する言語
日本語で読む「危機言語」
NPO法人 地球ことば村・世界言語博物館


あと,この本の書評なんかもちらほら見つけたけれど,
トラックバッグの方法とか作法がよくわからんので以降。

投稿者 Myrmecoleon : 21:26 | コメント (43) | トラックバック