2006年09月11日

『図書館内乱』買ってきました。

「おじゃる丸」原案者 飛び降り自殺 「仕事に悩み」

というので追悼に,仕事帰りにこんな本を買ってくる。

『おじゃる丸のまったり人生のススメ』

犬丸 りん著 (幻冬舎, 1999.03)
Amazon以外の取り扱いはこちら


まあ BOOK OFF なんでお香代の足しにはならんのですけどね(というか絶版っぽ)。おじゃる丸,最初の頃はよく見てたなあ。大地監督がすごい好きだった頃だ。十兵衛ちゃんとか。犬丸さん自身はあんまり知らなかったのだけど,さらっと読むと「まったりまったり」とか言いつつもけっこう考えちゃうタイプっぽい印象。だからかなあ(つーか,ニュース聞いたあとだからそう思ったのかもだが)。

ともかく,ご冥福をお祈りします。エンマ大王さまと仲良く(だめじゃん)。


まあ本題はこっちではなく。

図書館内乱

有川 浩著 (メディアワークス, 2006.09)
Amazon以外の取り扱いはこちら

こっち。

ついに待ちわびた続編が出ました。まあ例によって早売りがあったらしく(発売日なんて飾りですよね)すでに読んで感想をあげている人が多々。好評悪評さまざまみたい。
自分は土日は例によって家でだらだらしてたので,仕事帰りに書店によってゲット。前作もそういえば発売日の仕事帰りGETだったな,と思い出す。さ,期待しすぎないように読もうかな。


あっと告知。はてなの方で分館建てました。

Myrmecoleon in Paradoxical Library. はてな分館

基本的にはここメインでやっていくつもりだけれど,はてな関連の話題はあっちで書くつもり。これでいまのところ計4つのネット日記を書いてますねえ。何考えてるんだろう自分。分館の方では同人誌図書館の実現のための考察などをいろいろ書いてます(カトゆーさんとゴルゴさんに紹介されてしまいました。きっと最初で最後)。興味あったら見てやってくださいな。

投稿者 Myrmecoleon : 20:03 | コメント (14) | トラックバック

2006年06月25日

たたかうニュースキャスター

夏見正隆『たたかう! ニュースキャスター』(朝日ソノラマ, 2001)

「ひくっ,あのう,いくらボランティア活動が世のため人のためといったって――」
「自分の人生まで犠牲にして,やることはないと思います」

「そんなことは,馬鹿げています。人のために犠牲になって,自分の人生を無茶苦茶にして,それで,誰にも知られなくて,誰にも褒めてもらえないなんて,馬鹿げています。辛いだけです。それは――時々,嬉しい時もあるけれど,そんな時は一瞬で,あとは辛い現実が待ち構えているだけです」

「――あたしなんか,誰にも褒めてもらえないんだ。『よくやった』って,一言ぐらい褒めてほしいのに――褒められたくて何が悪いのよ。褒めてほしいわよ。ボランティアしたら,せめてみんなに,『よしみよくやった』って,褒めてほしいわよ。褒められたいよ。でなきゃ,浮かばれないわようっ」

ちょっと古い小説だけど図書館で見かけたのでゲット。この手のヒーロー物ラノベ?には弱かったりする。
内容を簡単に説明すれば「女子アナ版スパイダーマン」。能力的にはスーパーマンの方が近い(作中でも通称「スーパーガール」)のだけど,この感じはやはりスパイダーマンですね。宇宙人じゃないなー。

主人公よしみは,テレビ局の女子アナでありながら超能力をもつスーパーガールになってしまう。事件現場でキャスターをつとめる最中にも救いの声で現場に駆けつける。おかげで会社もクビ。大好きだった恋人は,自分ではなくスーパーガールに惚れて「よしみは友達で」と言う。唯一の理解者だった親友は,ドラマの共演をきっかけに恋人と仲良く。おりしも悪質なテロリストが激しい活動。失職し失恋し友情まで失いながら,カメラを振り切っていじわるな先輩アナを助けるために燃えるデパートに走り出す。

シチュエーションはほんと定番なわけですが,主人公の叫びがなんだかリアルでよかったですね。まあ写真だけ撮ってりゃ商売になるスパイダーマンと違って,彼女は現場でリアルタイムに仕事してないといけないわけで。それでも助けを求める声を一度も無視しない彼女の性格に乾杯。映画『スパイダーマン』で感動できたあなたなら,たぶんこの小説も楽しめます。むしろ身近でいい。


まあこのへんはよいとして,気になったのが一点。
この作品,発行日が2001年11月30日なんだが……作中でボーイングのっとって自爆テロ決行しようとするテロリストが登場するんだよね;
えっと,わかりませんかね? 911。
……よく出版できたよなあ。本家スパイダーマンなんて,ビル写ってるというだけでカットされたシーンがあったものだが。

あ。ちなみに作品自体は1996年に文庫で出してたものの大幅加筆だそうなので,不謹慎元ネタってことではないと思います。よく自主規制クレーム入らなかったな,もしくはよく守ってくれたなと感心したところ。

投稿者 Myrmecoleon : 12:59 | コメント (1) | トラックバック

2006年01月24日

さいきん読んだ本をだらだらと。

『紅(くれない)』

片山憲太郎著 『紅(くれない)』 (集英社,2005.12)

「――正しい選択肢なんてもんはない。選んだ後で,それを正しいものにしていくんだ」「……前向きですね」「後ろに何がある?」

(『電波的~』より好きかもしれん。ただ,銀子ちゃんの扱いが悪いね。)

『ヤクザに学ぶ組織論』

山平重樹著 『ヤクザに学ぶ組織論』 (筑摩書房,2006.01)

「ヤクザもの,馬鹿じゃ出来ない,利口じゃやらぬ。中途半端じゃ,なお出来ぬ」

(ちょっとヤクザ通になれます。)

『SEの教科書』

深沢隆司著 『SEの教科書』 (技術評論社,2006.02)

(単純に参考になりました。紹介されている業務フローの本を読みたいが,近くでおいてる図書館ないなあ。注文すべか)

『駅伝がマラソンをダメにした』

生島淳著 『駅伝がマラソンをダメにした』 (光文社,2005.12)

(正月の箱根が面白かったので。あんまり興味なくて知らなかったが,聞いてみればなるほどもっともな。母校があんまり取り上げられてなかったのがさみしい。)

『必笑小咄のテクニック』

米原万里著 『必笑小咄のテクニック』 (集英社,2005.12)

(以前著者の本が面白かったので。今回は残念。ことあるごとに小泉ネタが出るのに飽きた。)

『できる教師のデジタル仕事術』

堀田龍也ほか著 『できる教師のデジタル仕事術』 (時事通信社,2005.12)

(教師のだけど,図書館員にも通じるところがあると感じて衝動買い。実はまだ読み途中。とりあげられてる先生方のタイムスケジュールを見て,一念発起して最近は早起きしてます。)

投稿者 Myrmecoleon : 20:47 | コメント (673) | トラックバック

2005年10月27日

外山センセと「耳をすませば」

柊あおい著 『耳をすませば』 (集英社,2005.07 集英社文庫)

外山滋比古著 『外山滋比古著作集』3 異本と古典 (みすず書房,2003.03)

『耳をすませば』

『外山滋比古著作集』3 異本と古典

われわれは,いかにも無造作に“ものを読む”というが,本当に読む意味を考えることは稀である。読むというのは,目に見えないコピーを頭の中につくり上げることにほかならない。そして人間はだれひとりとして,まったく同じ反応をする者はいないから,同じ作品についてまったく同じ理解をすることは考えられない。似ているようでも,こまかいところを見れば必ず違っている。完全に同じコピーはないということである。
外山滋比古「コピー」 - 『外山滋比古著作集』 p.20

先日,「耳をすませば」の原作を読んだ。映画で見たものよりも強い印象を受けたのは面白かったが,さらに面白いのが,この少女漫画と宮崎映画との関係である。

「耳をすませば」は,図書館関係者では,カード式貸出についての不理解を与える憎き作品として知られている。ヒロインと彼氏が出会うきっかけになるのが,図書館の本にはさまれた貸出カードであったわけだが,現在ではこれを学校図書館以外で見つけるのは困難である(使用されてないものはうちの書庫などでも見かけるが)。なぜ廃止されたかというと,これは至極当然なことで,要するにプライバシーの問題。わりと前の話なので,個人情報保護が叫ばれてる昨今,むしろ図書館はそれを先んじて行ってきたわけだ。保護がずぼらだったおかげで生まれてきたロマンスもまぁあったんだろうが,それが「最近の図書館は冷たい」という批判の材料になるのは,という声があるらしい。
自分もカード式を体験してきた世代で,自分の図書カードだけ何枚も重ねた分厚いのになっていくのが妙に誇らしかったのを覚えている。自分は誰かを見つけたことはなかったが,自分を見つけた誰かはいたのかもしれないな,といまだとわりと気楽に思える。でもまぁ,バーコード式やら電子タグやらの方が便利と言っちゃあ便利ですよ。カードの紙ももったいないしなあ,

閑話休題。

まぁ,図書館屋的にはそういう複雑な思いのある映画なのだが,改めてこの作品の出生を知ると,むしろ別な意味で重要な作品なのかもしれないと思える。

そもそもこの作品,「りぼん」で連載されたものの,四回で打ち切られた不運な作品であった。アニメ化どころか,単行本化がやっと。作品の出来不出来より,テーマが当時の少女漫画向けでなかったとか言われているが,まぁ少女漫画の空気はあまりわからない。
そんな不運な漫画を,ひょんと見つけたのが宮崎駿氏であった。彼が使っていた長野の山小屋に,ちょうど「耳をすませば」の掲載された「りぼん」が転がっていたらしい。しかも,四回のうちの一回分のみ(しかも間の回)。これを宮崎氏が手に取り,読んでみて,面白いと思った。また翌年読んで面白いと思った。しかし前後の回の載った号はそこにはなく,宮崎氏は作中の彼女と彼がどんな風になっていくのかを,想像することしかできなかった。そしてある日,彼は

「これを映画にしよう」

と決めたのである。

面白いのが,その後に完全なかたちでの『耳をすませば』を読んだときの宮崎氏の言葉である。彼は“これは自分の話と違う”と言ったらしい。まったく勝手な言葉だが,これこそ「目に見えないコピーを頭の中につくり上げること」の好例だろう。

映画となった「耳をすませば」は,この宮崎氏の妄想海賊版をもとに,本来の原作である柊あおい氏の漫画もできるだけ残して,そうして作り上げられたものであったらしい。はっきり言ってしまえば同人誌のようなもので,まったくの「二次創作」である。

まぁそもそも,漫画であったものをアニメに映画にするというのは,常に作品の翻案であり,法的にもちゃんと二次創作物であると認められている。同人誌がたまに問題にされるのは,それが作者の黙認を前提にして売り捌かれているためで,しっかり許諾を得た上で作られたこの映画や,あるいは頭の中にしかなかった宮崎氏の海賊版についてはなんら問題はない。問題はないが,これらは具現したかしないか,著作権者に認められたか認められていないか,そうした点を除けばまったく同じものであるといっていい。

外山氏の論は,こうした作品のコピー,同人誌的なものも,鉛筆でトレースした写本も,あるいは本当に商業的利益だけを目的にした海賊版も含めても,さまざまなコピーが作られるということは,むしろ芸術においては当然の営為であるということである。

文芸の世界は,コピー・模倣・パクリを恥知らずな行為として罵倒する風潮がある。上記した同人誌の問題,あるいは近くは「のま猫」に象徴されるネットコミュニティとビジネスの問題,あるいはP2P技術を背景とした違法コピーの横行。確かに,自分たちの子供のような著作物を使って勝手に儲けているというのは気持ち悪いものかもしれない。同人誌などで自分の愛したキャラクターが無惨に蹂躙されているのは耐えられないかもしれない。もちろん,そうした感情論でなく,純粋にビジネスとして,さまざまな模倣・コピーを否定する場面も多いだろう。

とはいえ,「耳をすませば」に見えるように,むしろ著作物はコピーされていくことが常態である。そもそも本を読むということ,音楽を聴くということそのものがコピーである(特に電磁媒体について,これは比喩以上のものである)。それを禁止することは,それが著作物であること,何らかの表現であるという事実自体を否定する。

著作物は表現であり,表現とはメッセージを他者に伝達する行為,つまりコミュニケーションである。芸術は例外なくコミュニケーションの手段である。コミュニケーションは送り手だけでは成立しない。受け手が著作物を受け取ることは,同時に自身の中にそのコピーを作り出すことと不可分である。そのコピーは同一ではありえず,しばしばさまざまなノイズを交えて,オリジナルには語られていないこと,オリジナルと矛盾することすら包含する。

映画「耳をすませば」はヴァイオリンの技師になろうとする少年と洋楽に詞をつける少女の物語であるが,原作では少年は絵描きを志す少年で,少女は音楽とはほとんど触れ合わない(ずっと小説を書いている)。部分部分を取り出せば(当然)似ているのだが,あらすじを見ると別の話であることがよくわかる。宮崎氏の受け取ったコピーは,原作とはまるで別の物語を作ったのである。それが視聴に耐える作品となったのは彼の作家性に起因するところもあるのだろうが,行為そのものは決して特別なことではない。読者は誰もが自分の中の「もうひとつ」を抱く。そしてある者は,宮崎氏と同じように,それは「何か」として吐き出したいと思う。

享受によるコピーの生成と,コピーへの愛着による「再生産」の営み。これは「読書」の,そして芸術の,あるいはコミュニケーションという作業そのものの必須的な作業である。特に言葉による芸術,文芸においては,これはそもそもが根幹的な事柄でもある。

日本文学史で一般にいちばん最初に上げられる作品は「竹取物語」である。日本最大の物語のひとつ「源氏物語」において「ものがたりのいできはじめの祖」としてあげられていることがその主な理由であるが,その作品がそもそも「パロディ」であったことはあまり知られていない。竹取物語の筋は日本各地に残っている天女伝説の変形で,それだけなら口承に材をとったという程度に感じられるかもしれない。しかし竹取はそれに加え,ところどころに当時の宮廷へのあまり品の良くない皮肉が含まれている。求婚者の五人にはそれぞれモデルがあり,それぞれの失敗は,彼らを風刺したものである(後代においてそれが理解されず,単に面白い物語として享受されたところなどは,もともと政界の風刺話でしかなかったガリバー旅行記に似て面白い)。日本文学はパロディから始まっている。源氏をはじめとするその後の物語文学はすべて竹取の手法を真似たパロディであるし,物語以外の文学の流れは中国の文化の影響が強い。

とはいえこれは日本に限った話ではなく,ホメロスやギルガメシュ叙事詩など,多くの国において最初の文芸は神話や伝説のパロディである。これもまた特別なことではない。口承の文芸,昔話や伝説は,そもそもコピーされることでしか伝達されない性質のものである。当時の人々にとっては,普段は口伝えで披露してきた話を,たまたま文字を覚えたので紙に書いた,それだけの話であった。紙に書いた話が面白かったから別の紙に書き写し,その作業が困難であったから印刷を覚えた。やがて今ではその印刷した本が売れて,勝手に印刷されては儲けに響くから版権が生まれた。文芸と著作権の歴史とはそういうものである。本来的には,著作物は無限に模倣されてしかるべきであり,それが自然で推奨されたことだった。

それがなぜ現在は規制され問題視されるかといえば,人はに著作物を誰かに伝えたいという気持ちがあれば,その伝達をコントロールしたいという欲望もある,ということだろう。

自分の書いた物語が誰かに読まれるのは素晴らしいことだ。しかし,それが知らない誰かの作品として並んでいるというのは気持ち悪いだろう。あるいは自分の書いた覚えのない作品が自分のものとして並んでいたら? あるいは隠しておいたはずの詩が出版されたら。本が出ても,その売り上げの一端も手元には来ないとしたら。ビジネス面での訴訟も,これの延長と考えていい。自分のところで育てた作品,盛り上げてきた購買意欲,次なるビジネスチャンス,それを邪魔されるなんて,と。

だから管理したい。どれだけの人が読み,不当な方法で読んでいる者がいないか,勝手に利益をあげている人間はいないか。“自分の”物語を,誰かに汚されてはいないか。自分が受けるべき賞賛を,誰かに奪われてはいないか。著作権の根本とは,表現の管理への意思だろう。本来はそこら中に飛んでいってしまう「言葉」というものを,なんとか鎖をつけて飼い慣らしたい。それは不遜な考えだが,しかし理解できる感情でもある。

図書館という仕事は,この管理への意思の垣根の上に立っているサービスである。今日もある図書館から「図書の中の論文の文献複写は受けられません」というクレームが届いた。実は著作権法を読むかぎり,論文集のような一冊の図書に複数の論文の書かれているタイプの本の場合,そのうちの特定の論文全体のコピーは,著作権者の許諾がないかぎり行うことはできない。著作権法を厳密に執行する場合,百科事典の一項目でさえも,その全体をコピーすることは本来は許可されていない。雑誌の論文の場合は例外的に可能であるが,これは元々「雑誌のバックナンバーは入手が困難であるから」というだけの理由で,バックナンバーの入手可能な雑誌であるなら論文単位のコピーも断るのが本当だったりする。新聞などもさいきんは過去の記事を入手する手段がいろいろあるため,新聞記事のコピーも禁止される可能性がないわけでもない。
とはいえ,おそらくほとんどの図書館では,論文集中の論文のコピーも,百科事典からのコピーも,バックナンバーの入手可能な雑誌のコピーも認めている。それはそうしたニーズがあるからであり,またその行為が,著作権者に不当な不利益を与えるものではないと認識しているからである。
著作権法は上記した「表現を管理したい感情」を,法的に保護する法律である。図書館員もまたこの法律を尊重し,「表現を管理したい」という著作者の感情を認め,それを保護する。
だが同時に,図書館員は利用者=読者の「本を読みたい感情」,上記の比喩でいうなら「表現を自分の中にコピーしたい感情」をも認め,それを保護している。また,著作者が本来もっているだろう,そして著作物自体が望むだろう「読まれたい」という気持ちを保護する。本を「読む」行為には当然コピーの再生産も含まれる。自身の中の不完全なコピーでなく,完全なコピーを所有したいという感情は,ある意味「正確に著作者の表現を受け入れたい」という気持ちの表れと好意的に解釈することもできるだろう(まぁ,“買え”ばいちばん丸く収まるのだが;)。
図書館はこれら双方にはさまれた機関といえる。一方は読みたいといい,もう一方は勝手に読ませるなという。著作者の権利は確かに著作権法に保護されている。しかし,読者の権利を保護する機関こそ図書館である。そして著作自身は,おそらくは読まれることを欲している。これら両者にはさまれながらも,本と読者との出会いを招き,やがてより多くの本や表現の生まれることを願って,図書館員は,少なくとも自分は仕事をしている。

著作物は,表現は,芸術は,“本は”,
読まれなければ,コピーされなければ,模倣されなければ,
「生き続ける」ことはできない。

本を書く行為は,子供を産むことにしばしば例えられる。
子供を管理したいという気持ちはわかるし,それが正当である場面は多い。子供が危険な世界に関われば,彼の可能性が閉ざされるのではないか。そういう心配は,決して悪意ではない。
だが,もっと自由でもいいのではないか?
子供は勝手に生きていくものであり,むしろそうであるからこそ,子は親の想像を超えた存在になって,親も想像しなかった仕事を果たしていく。そういうものではないか。

「耳をすませば」は幸福な場所にさ迷いこんだ子である。彼は宮崎氏という得難い「第二の親」を得て,映画というもう一つの生を与えられた。しかし,彼ほど上手ではなく,つたない表現でしか,本来の親に認められない形でしか再生産をできない「第二の親」はたくさんいる。彼らの子はいつまでも日陰でしか遊べないのか。
「のま猫」はむしろ,多くの親に可愛がられた子猫が,突然誰かに首輪をはめられた事件だろう。モナーに新しい兄弟ができた,と喜んでやることもできたのだろうが,やはり金銭と絡むと難しいものらしい(まぁ,あれは完全に既に公有物化した著作物の二次創作であるから,著作権や商標権を主張するのは難しい。FLASHや個々の絵自体には一応著作権あるけどねえ)。
クローンのような子しか生まれない電子コピーを同列に考えるのはどうなのか,とは自分も思わないではないのだけれど,著作権者の怠慢によって表現を伝えられない人々に,表現を伝える方法がそれしかないのなら,ある程度は許容されてもよいのかな,とは思う(たとえば絶版レコードのMP3やら,関東ローカル番組の動画やら,マイナ言語のファンサブやら)。前も感じたが,著作権者には著作物を管理する権利と共に,それを求める人々に届ける義務もあるんではないかなあ。ビジネス的にそれができない場面を,無償で違法と知りつつ実行している人々は,たとえ犯罪者であってもヒーローであると思うよ。でも本当に欲しくて手に入る物は買えよ。

「耳をすませば」は図書館を中心にした物語だが,その在り方についても,図書館的に(というか,表現全般に関わるすべての人にとって)けっこう重要なのではないかな,と以上のように感じたわけでありますよ。
しかし原作の「耳をすませば」ほんと面白いですな。自分の印象では映画より面白かった。でもそれは映画を既に見飽きてたせいで,案外改めて映画を見直したらまた評価が変わるかも。どうでもいいけど,「耳をすませば」って二種類図書館出てたのだなー(県立図書館と学校図書館)。映画はどうだったっけ? 気づかなかったわ。

投稿者 Myrmecoleon : 23:59 | コメント (365) | トラックバック

2005年05月03日

読書記録 5/1~5/3

森薫著『エマ』1~5巻(エンターブレイン,~2005 ビームコミックス)

ずいぶん以前から話題になっていたので。立ち読み。
良いですね。特にあとがきのはっちゃけっぷりが。

浦沢直樹・手塚治虫著『PLUTO』1巻(小学館,2004.11), 同2巻(小学館,2005.06)

ちょうど2巻が出ていたのもあり,同じく話題にひかれて。
期待過剰だったが,それを差し引けば非常に素晴らしい。
人間と同じなんだ,でなく,
精巧にできている,でもなく,
ロボットの感情,というのを上手く表現しているように感じた。

森岡浩之『優しい煉獄』(徳間書店,c2005 トクマ・ノベルズ EDGE)

MMORPGのようなシステムで,死人が自分の“死後”を貯金で買う世界の物語。
発案は昭和末だそうだけど,現在のMMORPGなんかの空気があります。
アップデートが進むにつれて不便(=リアル)になっていく,という設定がウケる。
微妙な倫理問題が的確かつ入れ込み過ぎずすっきり流れていくのが良い。
しかし何がすごいかといえば,
こういうSFを「ああ,ありそう」と受け止められる現実でしょうか。

投稿者 Myrmecoleon : 13:45 | コメント (0) | トラックバック