« 2005年09月 | メイン | 2005年11月 »

2005年10月28日

Fate / hollow ataraxia 購入。

 『Fate/hollow ataraxia 初回版(DVD-ROM)』 (TYPE-MOON,2005.10)

Fate/hollow ataraxia 初回版(DVD-ROM)hollow 買えましたー。予約してなかったのでドギマギでしたが。これで安心して仕事に打ち込めます。でも,昼休みに抜け出してエロゲ買いに行く社会人てどうなのだろ。。。。w

買えなかったら,明日仙台行って探そうと思ってたのだけど。仙台行く動機がなくなってしまったなあ。静音電源とかも欲しいんだが。日曜にでも行こうかしらん。

投稿者 Myrmecoleon : 12:47 | コメント (31) | トラックバック

2005年10月27日

外山センセと「耳をすませば」

柊あおい著 『耳をすませば』 (集英社,2005.07 集英社文庫)

外山滋比古著 『外山滋比古著作集』3 異本と古典 (みすず書房,2003.03)

『耳をすませば』

『外山滋比古著作集』3 異本と古典

われわれは,いかにも無造作に“ものを読む”というが,本当に読む意味を考えることは稀である。読むというのは,目に見えないコピーを頭の中につくり上げることにほかならない。そして人間はだれひとりとして,まったく同じ反応をする者はいないから,同じ作品についてまったく同じ理解をすることは考えられない。似ているようでも,こまかいところを見れば必ず違っている。完全に同じコピーはないということである。
外山滋比古「コピー」 - 『外山滋比古著作集』 p.20

先日,「耳をすませば」の原作を読んだ。映画で見たものよりも強い印象を受けたのは面白かったが,さらに面白いのが,この少女漫画と宮崎映画との関係である。

「耳をすませば」は,図書館関係者では,カード式貸出についての不理解を与える憎き作品として知られている。ヒロインと彼氏が出会うきっかけになるのが,図書館の本にはさまれた貸出カードであったわけだが,現在ではこれを学校図書館以外で見つけるのは困難である(使用されてないものはうちの書庫などでも見かけるが)。なぜ廃止されたかというと,これは至極当然なことで,要するにプライバシーの問題。わりと前の話なので,個人情報保護が叫ばれてる昨今,むしろ図書館はそれを先んじて行ってきたわけだ。保護がずぼらだったおかげで生まれてきたロマンスもまぁあったんだろうが,それが「最近の図書館は冷たい」という批判の材料になるのは,という声があるらしい。
自分もカード式を体験してきた世代で,自分の図書カードだけ何枚も重ねた分厚いのになっていくのが妙に誇らしかったのを覚えている。自分は誰かを見つけたことはなかったが,自分を見つけた誰かはいたのかもしれないな,といまだとわりと気楽に思える。でもまぁ,バーコード式やら電子タグやらの方が便利と言っちゃあ便利ですよ。カードの紙ももったいないしなあ,

閑話休題。

まぁ,図書館屋的にはそういう複雑な思いのある映画なのだが,改めてこの作品の出生を知ると,むしろ別な意味で重要な作品なのかもしれないと思える。

そもそもこの作品,「りぼん」で連載されたものの,四回で打ち切られた不運な作品であった。アニメ化どころか,単行本化がやっと。作品の出来不出来より,テーマが当時の少女漫画向けでなかったとか言われているが,まぁ少女漫画の空気はあまりわからない。
そんな不運な漫画を,ひょんと見つけたのが宮崎駿氏であった。彼が使っていた長野の山小屋に,ちょうど「耳をすませば」の掲載された「りぼん」が転がっていたらしい。しかも,四回のうちの一回分のみ(しかも間の回)。これを宮崎氏が手に取り,読んでみて,面白いと思った。また翌年読んで面白いと思った。しかし前後の回の載った号はそこにはなく,宮崎氏は作中の彼女と彼がどんな風になっていくのかを,想像することしかできなかった。そしてある日,彼は

「これを映画にしよう」

と決めたのである。

面白いのが,その後に完全なかたちでの『耳をすませば』を読んだときの宮崎氏の言葉である。彼は“これは自分の話と違う”と言ったらしい。まったく勝手な言葉だが,これこそ「目に見えないコピーを頭の中につくり上げること」の好例だろう。

映画となった「耳をすませば」は,この宮崎氏の妄想海賊版をもとに,本来の原作である柊あおい氏の漫画もできるだけ残して,そうして作り上げられたものであったらしい。はっきり言ってしまえば同人誌のようなもので,まったくの「二次創作」である。

まぁそもそも,漫画であったものをアニメに映画にするというのは,常に作品の翻案であり,法的にもちゃんと二次創作物であると認められている。同人誌がたまに問題にされるのは,それが作者の黙認を前提にして売り捌かれているためで,しっかり許諾を得た上で作られたこの映画や,あるいは頭の中にしかなかった宮崎氏の海賊版についてはなんら問題はない。問題はないが,これらは具現したかしないか,著作権者に認められたか認められていないか,そうした点を除けばまったく同じものであるといっていい。

外山氏の論は,こうした作品のコピー,同人誌的なものも,鉛筆でトレースした写本も,あるいは本当に商業的利益だけを目的にした海賊版も含めても,さまざまなコピーが作られるということは,むしろ芸術においては当然の営為であるということである。

文芸の世界は,コピー・模倣・パクリを恥知らずな行為として罵倒する風潮がある。上記した同人誌の問題,あるいは近くは「のま猫」に象徴されるネットコミュニティとビジネスの問題,あるいはP2P技術を背景とした違法コピーの横行。確かに,自分たちの子供のような著作物を使って勝手に儲けているというのは気持ち悪いものかもしれない。同人誌などで自分の愛したキャラクターが無惨に蹂躙されているのは耐えられないかもしれない。もちろん,そうした感情論でなく,純粋にビジネスとして,さまざまな模倣・コピーを否定する場面も多いだろう。

とはいえ,「耳をすませば」に見えるように,むしろ著作物はコピーされていくことが常態である。そもそも本を読むということ,音楽を聴くということそのものがコピーである(特に電磁媒体について,これは比喩以上のものである)。それを禁止することは,それが著作物であること,何らかの表現であるという事実自体を否定する。

著作物は表現であり,表現とはメッセージを他者に伝達する行為,つまりコミュニケーションである。芸術は例外なくコミュニケーションの手段である。コミュニケーションは送り手だけでは成立しない。受け手が著作物を受け取ることは,同時に自身の中にそのコピーを作り出すことと不可分である。そのコピーは同一ではありえず,しばしばさまざまなノイズを交えて,オリジナルには語られていないこと,オリジナルと矛盾することすら包含する。

映画「耳をすませば」はヴァイオリンの技師になろうとする少年と洋楽に詞をつける少女の物語であるが,原作では少年は絵描きを志す少年で,少女は音楽とはほとんど触れ合わない(ずっと小説を書いている)。部分部分を取り出せば(当然)似ているのだが,あらすじを見ると別の話であることがよくわかる。宮崎氏の受け取ったコピーは,原作とはまるで別の物語を作ったのである。それが視聴に耐える作品となったのは彼の作家性に起因するところもあるのだろうが,行為そのものは決して特別なことではない。読者は誰もが自分の中の「もうひとつ」を抱く。そしてある者は,宮崎氏と同じように,それは「何か」として吐き出したいと思う。

享受によるコピーの生成と,コピーへの愛着による「再生産」の営み。これは「読書」の,そして芸術の,あるいはコミュニケーションという作業そのものの必須的な作業である。特に言葉による芸術,文芸においては,これはそもそもが根幹的な事柄でもある。

日本文学史で一般にいちばん最初に上げられる作品は「竹取物語」である。日本最大の物語のひとつ「源氏物語」において「ものがたりのいできはじめの祖」としてあげられていることがその主な理由であるが,その作品がそもそも「パロディ」であったことはあまり知られていない。竹取物語の筋は日本各地に残っている天女伝説の変形で,それだけなら口承に材をとったという程度に感じられるかもしれない。しかし竹取はそれに加え,ところどころに当時の宮廷へのあまり品の良くない皮肉が含まれている。求婚者の五人にはそれぞれモデルがあり,それぞれの失敗は,彼らを風刺したものである(後代においてそれが理解されず,単に面白い物語として享受されたところなどは,もともと政界の風刺話でしかなかったガリバー旅行記に似て面白い)。日本文学はパロディから始まっている。源氏をはじめとするその後の物語文学はすべて竹取の手法を真似たパロディであるし,物語以外の文学の流れは中国の文化の影響が強い。

とはいえこれは日本に限った話ではなく,ホメロスやギルガメシュ叙事詩など,多くの国において最初の文芸は神話や伝説のパロディである。これもまた特別なことではない。口承の文芸,昔話や伝説は,そもそもコピーされることでしか伝達されない性質のものである。当時の人々にとっては,普段は口伝えで披露してきた話を,たまたま文字を覚えたので紙に書いた,それだけの話であった。紙に書いた話が面白かったから別の紙に書き写し,その作業が困難であったから印刷を覚えた。やがて今ではその印刷した本が売れて,勝手に印刷されては儲けに響くから版権が生まれた。文芸と著作権の歴史とはそういうものである。本来的には,著作物は無限に模倣されてしかるべきであり,それが自然で推奨されたことだった。

それがなぜ現在は規制され問題視されるかといえば,人はに著作物を誰かに伝えたいという気持ちがあれば,その伝達をコントロールしたいという欲望もある,ということだろう。

自分の書いた物語が誰かに読まれるのは素晴らしいことだ。しかし,それが知らない誰かの作品として並んでいるというのは気持ち悪いだろう。あるいは自分の書いた覚えのない作品が自分のものとして並んでいたら? あるいは隠しておいたはずの詩が出版されたら。本が出ても,その売り上げの一端も手元には来ないとしたら。ビジネス面での訴訟も,これの延長と考えていい。自分のところで育てた作品,盛り上げてきた購買意欲,次なるビジネスチャンス,それを邪魔されるなんて,と。

だから管理したい。どれだけの人が読み,不当な方法で読んでいる者がいないか,勝手に利益をあげている人間はいないか。“自分の”物語を,誰かに汚されてはいないか。自分が受けるべき賞賛を,誰かに奪われてはいないか。著作権の根本とは,表現の管理への意思だろう。本来はそこら中に飛んでいってしまう「言葉」というものを,なんとか鎖をつけて飼い慣らしたい。それは不遜な考えだが,しかし理解できる感情でもある。

図書館という仕事は,この管理への意思の垣根の上に立っているサービスである。今日もある図書館から「図書の中の論文の文献複写は受けられません」というクレームが届いた。実は著作権法を読むかぎり,論文集のような一冊の図書に複数の論文の書かれているタイプの本の場合,そのうちの特定の論文全体のコピーは,著作権者の許諾がないかぎり行うことはできない。著作権法を厳密に執行する場合,百科事典の一項目でさえも,その全体をコピーすることは本来は許可されていない。雑誌の論文の場合は例外的に可能であるが,これは元々「雑誌のバックナンバーは入手が困難であるから」というだけの理由で,バックナンバーの入手可能な雑誌であるなら論文単位のコピーも断るのが本当だったりする。新聞などもさいきんは過去の記事を入手する手段がいろいろあるため,新聞記事のコピーも禁止される可能性がないわけでもない。
とはいえ,おそらくほとんどの図書館では,論文集中の論文のコピーも,百科事典からのコピーも,バックナンバーの入手可能な雑誌のコピーも認めている。それはそうしたニーズがあるからであり,またその行為が,著作権者に不当な不利益を与えるものではないと認識しているからである。
著作権法は上記した「表現を管理したい感情」を,法的に保護する法律である。図書館員もまたこの法律を尊重し,「表現を管理したい」という著作者の感情を認め,それを保護する。
だが同時に,図書館員は利用者=読者の「本を読みたい感情」,上記の比喩でいうなら「表現を自分の中にコピーしたい感情」をも認め,それを保護している。また,著作者が本来もっているだろう,そして著作物自体が望むだろう「読まれたい」という気持ちを保護する。本を「読む」行為には当然コピーの再生産も含まれる。自身の中の不完全なコピーでなく,完全なコピーを所有したいという感情は,ある意味「正確に著作者の表現を受け入れたい」という気持ちの表れと好意的に解釈することもできるだろう(まぁ,“買え”ばいちばん丸く収まるのだが;)。
図書館はこれら双方にはさまれた機関といえる。一方は読みたいといい,もう一方は勝手に読ませるなという。著作者の権利は確かに著作権法に保護されている。しかし,読者の権利を保護する機関こそ図書館である。そして著作自身は,おそらくは読まれることを欲している。これら両者にはさまれながらも,本と読者との出会いを招き,やがてより多くの本や表現の生まれることを願って,図書館員は,少なくとも自分は仕事をしている。

著作物は,表現は,芸術は,“本は”,
読まれなければ,コピーされなければ,模倣されなければ,
「生き続ける」ことはできない。

本を書く行為は,子供を産むことにしばしば例えられる。
子供を管理したいという気持ちはわかるし,それが正当である場面は多い。子供が危険な世界に関われば,彼の可能性が閉ざされるのではないか。そういう心配は,決して悪意ではない。
だが,もっと自由でもいいのではないか?
子供は勝手に生きていくものであり,むしろそうであるからこそ,子は親の想像を超えた存在になって,親も想像しなかった仕事を果たしていく。そういうものではないか。

「耳をすませば」は幸福な場所にさ迷いこんだ子である。彼は宮崎氏という得難い「第二の親」を得て,映画というもう一つの生を与えられた。しかし,彼ほど上手ではなく,つたない表現でしか,本来の親に認められない形でしか再生産をできない「第二の親」はたくさんいる。彼らの子はいつまでも日陰でしか遊べないのか。
「のま猫」はむしろ,多くの親に可愛がられた子猫が,突然誰かに首輪をはめられた事件だろう。モナーに新しい兄弟ができた,と喜んでやることもできたのだろうが,やはり金銭と絡むと難しいものらしい(まぁ,あれは完全に既に公有物化した著作物の二次創作であるから,著作権や商標権を主張するのは難しい。FLASHや個々の絵自体には一応著作権あるけどねえ)。
クローンのような子しか生まれない電子コピーを同列に考えるのはどうなのか,とは自分も思わないではないのだけれど,著作権者の怠慢によって表現を伝えられない人々に,表現を伝える方法がそれしかないのなら,ある程度は許容されてもよいのかな,とは思う(たとえば絶版レコードのMP3やら,関東ローカル番組の動画やら,マイナ言語のファンサブやら)。前も感じたが,著作権者には著作物を管理する権利と共に,それを求める人々に届ける義務もあるんではないかなあ。ビジネス的にそれができない場面を,無償で違法と知りつつ実行している人々は,たとえ犯罪者であってもヒーローであると思うよ。でも本当に欲しくて手に入る物は買えよ。

「耳をすませば」は図書館を中心にした物語だが,その在り方についても,図書館的に(というか,表現全般に関わるすべての人にとって)けっこう重要なのではないかな,と以上のように感じたわけでありますよ。
しかし原作の「耳をすませば」ほんと面白いですな。自分の印象では映画より面白かった。でもそれは映画を既に見飽きてたせいで,案外改めて映画を見直したらまた評価が変わるかも。どうでもいいけど,「耳をすませば」って二種類図書館出てたのだなー(県立図書館と学校図書館)。映画はどうだったっけ? 気づかなかったわ。

投稿者 Myrmecoleon : 23:59 | コメント (363) | トラックバック

2005年10月25日

最近やっている作業とか。

最近,というよりは水脈をたどるとかなり古くからであるが,自分は
神様だの妖怪だの物語の登場人物だの,そういうののデータベースを作るのを趣味としている。

きっかけは別に宗教とか信仰とかそういうのではない。
漫画やゲームに出てくる名前に原型となる物語があり,それらは相互に関係しあっているということに,単純に感動した結果だろうと思う。
思い返せば,小学生くらいから既に近いことをしていた記憶がある。もちろん紙と鉛筆の世界だが。

最初に自分のPCをもったとき(中学の終わり頃だったように思う)にしたのが,Lotusのデータベースソフトでそれを作ることだったと思う(親父殿がLotus党でしたのね)。
父親の買っていた雑誌の付録に似たようなことをやっているものを見つけて,それに自分の色を少しずつ加えていく。それがはじまりだった。

大学で民俗学をやりたいと思ったのは京極夏彦の小説を読んだから(多分そうなんだろう)だが,小説の中の蘊蓄に,自分がやってきたことに似たものを感じたからでもある。やがて「妖怪」という対象からは興味が離れていったが(そういや最近は京極夏彦読んでないな),選んだ方向は必ずしも間違ってはいなかったように思える。
口承文芸と文学研究の齟齬だの,俗信のヴァリアントの多様性だの,いろいろと興味をもって調べて,子供の頃からの興味が,肉付けされていくのを感じた。

だが,大学の頃にインターネットをはじめて,自分と似たような趣味をもった人がたくさんいるのを知った。内容については感心するものもあれば,考え方の甘さに失笑するものもあったが,自分のしているようなことが既にされていることに満足し,彼らと同様にそれを公開することはあまり考えなかった。
Dictionary of Pandaemoniumさんなどは分担作業で大量の項目が執筆され,かなり大規模なものになっている。分野を限定すれば(それこそ上記の「妖怪」とか)有志やら企業企画やらで立派なのがいくつかある。
それらの発展を見守れば,何かを新しくする価値は少ないのかもな,とも思っていた。

それが,最近図書館の仕事をしたり,データベースでのWebサービスなどを扱うようになって,少し考え方が変わってきた。

ひとつは,既にあるものよりもっと高度なサービスが,技術的には可能であり,自分はそれが可能であるか,もしくはその途上にあるということ。
たとえば,上記のDictionary of Pandaemoniumは共同執筆であるものの,Wikipediaなどと違い管理者の手間が大きく,技術的に最良の方法であるとは言えない。さいきんRDB化したようだが,実際にMySQLなどを扱っている立場から見れば,もっと上手い作り方はいくらでもあるように思える。

また,図書館員としての視点から,もう少し別の立場でのサービスもできるのではないか,ということ。
辞書(Dictionary)という形式は,こうした興味に対する対応としては必ずしも有効でない。むしろ,個々の項目についての索引やリンク集的な形式の方が,インターネットという媒体での使用としては的確ではないか。そもそも,辞書形式は著作権の問題なんかも山盛りで,個人ベースでやるのはけっこう面倒な気もするのですねぇ。

加えていえば,こういった見方を持てて,こういった方面に関心があり,また実行する能力と環境がある人間,というのは必ずしも多くはないように思える。というか,全部もっている人はもっと別の有意義な仕事(それこそ学術研究とか執筆業とか)をしていると思う;

そういう問題意識をつらつらと考えているうちに,実際にやってみたい,試してみたいという気持ちが起こってきた。ちょうど自分のサーバを構築したいという気持ちもあったので,好機と思い,データベースの組み直しや入力のし直しなどをしているのが現状である。
現在やっている作業,この前のエントリーで言っていた企画というのはまさしく上記のものだ。
だいたい一日一時間程度,それ関係のことをしこしことやっている。

まぁ,実際まじめにやってみるとかなり時間もかかるもので,データの方はやっと2000項目を越えた程度だが,かなり偏っているのでとりあえず5000項目を越えたら公開フェイズに移ろうかなと。
まぁ,真面目にはじめてからもう3ヶ月くらい経ってるわけですが;
そんなことやってる間に,似たようなことをやる人に先を越されそうな気もしないではないが;
(仮想敵のPandaemoniumさんは随時発展中だし,さいきんは調べてないから知らないところとかどんどん出てるかもしれんし)

でもまぁ,有意義な暇つぶしにはなっているので,それはそれでよしとしましょうか。
公開したら公開したでいろいろと問題はありそうだし,そもそも想像してるほどニーズがあるのかというのもありますけどね。
まぁ多分,仕事で大金使ってつくっているデータベース等よりは世間ウケするとは思うけどな。。。。


というわけで,
どっちかというとサーバいじりよりそっちのがハマってて病気になりそうですよ。>某氏
どっちもやってるのが楽しいのでまるで苦にはならんのですがねぇ。

投稿者 Myrmecoleon : 21:49 | コメント (4) | トラックバック

2005年10月23日

手直し。

チャットのスクリプトに問題があったので手直し。
まさかUTFでコード書くとHeaderが利用できないとは。。。 文字コードまわりはめんどいね。

夜に外部のWeb日記からリンク貼ったので,急にカウンタがくるくるまわりだしました。
アクセスログとか見てると動向が見えて楽しいですな。
いやあ,しかしハマるハマる。コードいじってたらまた今夜もすごい時間だわ。

はよ寝よう寝よう。

投稿者 Myrmecoleon : 01:14 | コメント (5) | トラックバック

2005年10月22日

再構築。

自宅サーバをしばらく前から公開しました。うっさいのでたまに止めますが(ぁ
それに関連してデータベースまわりを再点検。近々新しいネタを試してみるための準備。
ソフトによって文字コードがばらばらだった障害がやっと解消されました。

ブログもやっと移行に成功。サーバの静音化が成功したら本格的に移してもいいかも。
チャットもこっちのが早いしねえ。

チャットの高機能化(画像UP,認証による発言管理,等)はひとます置いておいて,
現在は上記の新ネタ関連の作業をいろいろと。
Google Maps API あたりも面白そうだなあ。新ネタの方で組み込もうかな。
うまくいけば,これまで国内のネット上にはなかったサービスができるはず。
それができたら,あとはアフィリエイト系で小銭稼ぎを,と妄想は膨らむわけです。

ふふり。


そういや,昨日公開のBOOK TOWN じんぼうはちょっと面白そう。
NIIのGETAで連想検索できる,古書店総合目録,といったところ。
地図を自在に移動して書店情報を当たれるところもポイント高し。
NIIも頑張ってるなあ。

投稿者 Myrmecoleon : 05:20 | コメント (597) | トラックバック