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2005年05月14日
読書記録 5/8~5/14
クロード・アジェージュ著『絶滅していく言語を救うために』(白水社,2004.03)
(読書中)
『消滅する言語』を読んだ関係で。まだ最初の方しか読んでいないけれど,似たような主題ながら立場が微妙に違うのが感じ取れる。
『消滅する言語』では,言語の死の予防が主眼で,失われた言語はまず戻らない,というのが立ち位置であったように思える。それに対し,こちらではソシュールのラング/パロールの分類を出して「パロールの死は言語の死ではない」と主張し,現代ヘブライ語の再生を多く紹介している。こちらの立ち位置は予防<再生であるように感じる(まだ途中だが)。
自分は,確かに言語の再生はありうると思うのだが,それが本当の意味での「再生」でありうるのかについては疑問が残る。確かに,ヘブライ語は見事に復活した。けれど,それは複数の一神教の原典であり続けたというヘブライ語の特別な事情によるものではなかったか,などとも思うし,そうでない言語が再生を遂げられたとしても,言語にとって重要な部分が欠けたりはしないか,とも考える。
著者は「話者の消失はパロールの死であり,ラングの死,つまり言語の死ではない」とする。これは生物には見られない,言語独特の性質であり,だから生物の死とは違い,言語は再生することができると言う。しかし,生物学の立場からいっても,「ある種の生物の絶滅は,種の絶滅ではない」と似たようなことが言えないわけではない。実際のところ,現実に歩いている諸生物は遺伝子の発現,表現型に過ぎない。ラングとパロールの関係は,遺伝子と生物体との関係に等しいとわたしは考える。たとえ生物体が絶滅しても,人類は遺伝子からそれを再生成する方法を見つけるだろう。
だが,それで種が再生するわけではない。生物は生態系の中で生きていくものであり,ある生物の失われた生態系は,二度と元の環境には帰らない。あるいは動物社会の生活パターン,鳥やイルカの歌声,それらはある程度は解剖学的特徴に起因するものであっても,ある程度学習的な方法によって身につけているものである。人類とも違う,彼ら独自の教育法によって引き継がれていく知識が確かにある。これは遺伝子から再生成されただけの生物体には決して身につけえないものだ。単に標本をとるばかりではなく,科学者たちが生物の絶滅を防ぐ活動を続けているのは,そうした部分もある。
言語の再生についても同じ問題がある。文法と語彙,発音をすべて記録してあったとしても,そこに人々の生活感覚が伴わなければ,言語として復活することは難しい。また,かつて話されていた時期と再生した時期では環境も違う。かつて栄えた文化は言語の消失とともに衰退しただろう。そして新たな文化を古い言語が表現していくのは非常に困難であると思われる。時代に応じて変化していった言語でなければ,その時代の文化環境には適合しえない。一度でも死んだ言語は,二度と同じ血と肉を持って甦ることはできない。
そう,思うのだけれど,自分は現代ヘブライ語の再生の事情などについてあまり知らない。自分の批判が有効なものであるか,的外れなものであるか,あるいは既に解決策が存在するのか。読んでいくのが楽しみである。
逸身喜一郎著『ラテン語のはなし 通読できるラテン語文法』(大修館書店, 2000.12)
図書館のカウンター当番中に見つけた借りた本。ライトなラテン語入門書。ラテン語の名句を紹介しながら,ラテン語の文法,現代の諸言語への影響,ローマ時代の思想などについて触れていく形式。まずラテン語というのがどういう言語なのか理解したい人にいいかもしれない。
非常に興味深かったのが,「語順自由」というラテン語の特徴。
英語やフランス語では,文章は必ず(例外はあるが)「主語・動詞・目的語」の形式をとります。
動詞の前に来るのは動詞を修飾する助動詞や副詞と,主語を表現する名詞句のみ。
これらの言語は,動詞や助動詞の位置を変えることで疑問文や命令文を作りますが,
そのために「動詞・目的語・主語」のような変形は許されていません。
日本語は多少融通が利いて「(主部等)・述部」の形式になります。述語(述部)が(正式の文では)必ず最後に来なければいけないという鉄則はありますが,それ以外は助詞の付け方によってどのような順序においても文として成立するという自由があります。
これらに対し,ラテン語では一文の中のどこにどの単語があってもかまいません(前置詞など,一部の例外はある)し,それでも文意がとれるという特殊な性質をもっています。英語でいえば,
This is the white book. を,
book this the is white. などのように適当に並べても意味がとれるようになっています。
なぜこれが可能かというと,英語では複数形・過去形・過去分詞などにしか残っていないような語の変形が,ラテン語ではすべての単語について存在しているためです。たとえば名詞・代名詞・形容詞は複数と単数,三つの「性」,六つの「格」の,2×3×6の36通りの変形があります。動詞は英語にもある態・時制・人称・数,そして直説法や接続法などの「法」の変形があり,すべてをかけると100以上の変形があります。
ラテン語ではこの無数の変形により,どの語がどの語と関連するかどうかがわかるようになっています。形容詞は修飾する名詞と同じ変形をするようになっていますし,動詞はどの格の名詞をとるかがある程度決まっています。このため100%確実とは言えませんが,多くの場合文の解釈を一意化することが可能なわけです。
最近,生成文法(人類共通の「普遍文法」があると考え,すべての文法はそこから生成可能とする学説)も少し勉強してるのですが,言語の多様性を考えるにあたっては,動詞を前に置く英語と後ろに置く日本語,そしてどこにおいてもかまわないラテン語と,色々知っておくのは面白いなあ,と思った次第。ローマ時代に無数の詩や文学が編まれた背景にも,ラテン語の語順自由な性格なんかが影響してるんでしょうねえ。
この本はそういう,ラテン語の導入書としてはなかなかよい感じでした。
ただ,マジメに学習するのにはちょっと辛いので,そのつもりなら別の学習書が必要ですね。
自分もラテン語勉強したくなってきたなあ。
原秀則著『電車男』1 漫画版(小学館,2005.04 ヤングサンデーコミックス)
テキスト版『電車男』は,書店で立ち読みして面白いと思い,ネットでログ読んで疑いつつも感動した“作品”です(書籍版を通読したことは無し)。後日いくつかの検証サイトに目を通して,あきらかに不自然な点があることを確認し,現在のところクロに近い灰色ぐらいで理解しています。以降の「Web→出版」運動激化の要因として,それらに対するダーティな言説の原点として考えると,なかなか意義深いものがありますね(近頃だとココログ出版とか)。
まぁ,そんな作品なので漫画版もあまり期待はしていませんでした。連載読んでないし。でもあれですねぇ,そんな作品だとわかっていながら,読んでいてニヤけた笑いをかみ殺してしまうのはなぜだw ううむ。
仮に電車男のストーリーがほぼフィクションだとしても,あのテキスト群は(ある種の)読み手に妙な感動を覚えさせるようなところがあるな,と思うのです(漫画版については描き手の技法にも依存してると思いますが)。“作者”が文豪だとは言いませんが,口承文芸的な場(2ちゃんねる)を通じて生成された一種の文学だと考えてやった方がよいのかもしれません。そういう意味では『電車男』は評価できるし,素晴らしい“作品”である,と見ていいのではないでしょうか。
しかし,映画化にTVドラマ化かあ。。。
なんだか様々な誤解が世間を蔓延しそうな予感バリバリだわい。
中里融司著『狂科学ハンターREI』 1-5巻(主婦の友社,1996.06-1999.01 電撃文庫)
科学の歴史の中には,その成果が認められず,正当な学問系統においてその後継者を得られなかった知見,命題が多数ある。その多くは,実際のところ妄念から来る誤りに過ぎないと判断されているが,そうではなく,彼らの思想に世間がついていけなかった,あるいは危険を覚えた者が研究を妨げたのだ,とそのように言うものも多い。
疑似科学,オカルト,トンデモ本,ブードゥーサイエンス,エセ科学,そうした領域に投げ込まれているさまざまな研究は,無数の科学的な反証を与えられながらも,依然として多くの人によって信じられている。また,信用はしないでも,そうした研究の動向を面白がってみるものも多い。なぜ人々がエセ科学を信じるのか,どのような構造があるのか,それに対する心理学・民俗学的な考察は非常に興味深い。
以前,自身もこうしたところに引かれて,科学と疑似科学,および俗信を交えた上での知識の伝承の問題について考察してみようと思ったことがある。また,それとは別に,魔法や超能力と並んでそうしたトンデモ科学が活躍するようなフィクションを考えていたこともあった。今回この本を読むことにした契機はそういった縁から“気になっていた”ことにある。
この著作は,そうした疑似科学的な研究が真に有効なものであったという設定の元,狂科学・秘宝科学とも表現されるその技術を有する秘密結社と,そこから離反した主人公との対立を描く仮面ライダー的な小説である。結社は狂科学の研究のため,多数の人々の人生を歪め続けてきた。主人もまたは結社の研究のために姉を失い,そうした研究すべて,狂科学を憎んでいた。しかし,その研究によって生命を得た愛らしい少女との出会いにより,狂科学,逸脱した科学であっても,人々の理想を追い求めた営為の結晶であり,それは単純に否定すべき事項ではないのだと気づく。
善悪の単純な対立ではなく,媒介者を置くことで弁証法的な運動に向かうというのは基本をふまえていて好感は持てた。ただ好みの問題だとは思うが,文章や演出,構成についてはあまり評価はできない。「不釣り合いな胸と腰」とか記号的な表現はどうにかならんものだろうか;
ちなみに,好きなキャラはオーギュスト公爵と月形さんですね。
冷静だが心根は熱く,的確に行動しクールに一番いい見せ場で登場する公爵と,
頭も心もひたすら熱く,ひたすら暴走し,物語上も不当な立場をしいられ続けた月形さん。
かっこいいですお二人さん。
ほかは正直どうでもいいや(ぁ
投稿者 Myrmecoleon : 2005年05月14日 14:30
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