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2005年05月28日

近況。

ここしばらく愛・地球博の方に旅行に行っていたので更新が滞ってました。
出発直前に読んだ本,移動中に読んだ本,帰り際に買って読んだ本,
大量にたまっているので少しずつ消化せねば。

旅行はかなり面白かったです。見たかったi-unitもソニーの巨大ディスプレイも360°×360°ディスプレイも見られましたし。各国のパビリオンもまわれましたし。金のシャチホコも大きかったです。

ただ,全部の国をまわれなかったのがちと心残り。また夏にでも行こうかしら?

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2005年05月27日

『電波的な彼女』

片山憲太郎著 『電波的な彼女』(集英社,2004.09 集英社スーパーダッシュ文庫)
『電波的な彼女 ~愚か者の選択~』(同,2005.03)


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今やっているひぐらしもそうだけど,「デンパな彼女」ってなんだかこの頃のブームですよねえ。精神に問題があるけれどかわいい,いや,精神に問題があるからこそ可愛い? ネコミミ・メイドに続いて今度はデンパってかんじの。可愛いのに何をするかわからない,守ってあげなきゃ路線でロリの延長だとか分析する向きもありそうですが。 流れとしては,ライトノベル方面での源流はやはり『雫』でしょうかね。もう少したどると大槻ケンヂの『オモイデ教』とか。というか,彼の体験談の中にあったなあ,デンパなかわいい先輩との会話が。さらにたどると文学とかサイコホラーとか? まぁ,「電波」という語の元は多分,大槻さんあたりでよいのだろうなあ。

まぁ,それはともかくとして,デンパ萌えを前面に押し出した作品がこちら,『電波的な彼女』です。作品の出来はわりと良。ミステリとしては物足りないところがあるけれど(犯人,あらすじ読んだ時点でわかりましたよ,って推理じゃないけどw),物語としてなかなか。このタイプの小説ってアレですよね,デンパな少女の痛さより,まともなはずの主人公の行動に痛さを感じる。「ああ,うしろうしろ,ばかあ」と叫びたくなる感覚。
しかし良かった。何がいいって,真犯人さんの最後の暴れっぷり,壊れっぷり。加えてそのあたりの文章描写。「痛み」の表現っていいよなあ(ひぐらし綿流しのラスト手前が少し流れ的に似てたけれど,文章だけならこちらの方が秀逸)。
残念だったのは,その壊れっぷりがああして結末してしまったことだろうか。確かに自殺よりは良かったんだけどねぇ。なんかもうちょい・・・・・・ううん。


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続編の「愚か者の選択」に関しては,まあ話としては良く出来てるとは思う。似たような事件にしてしまったらそれこそ食傷だし。ただし,どうしても新キャラの紹介だけに終わってしまっている。もうちょいどうにか出来たかなーという。前作のキレ味がにぶっているというか。今回の新キャラも,前回の子と違ってどうもステロタイプだし。生々しさが薄い。 ただ,これが次回作以降への布石として上手く動いてるなら,間をつなぐものとして一種価値はあるかもなあ,と。

というわけで三作目を期待。でも今作の路線だと,あんまり面白くない方向に向かいそうな・・・・・・一作目犯人の再登場を願う,かな。

(このエントリは6月4日に書きました)

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『お兄ちゃんはプログラマ』

藤山哲人『お兄ちゃんはプログラマ』(技術評論社,2005.05)

お兄ちゃんはプログラマ? SE業界の新人さんやプログラマ志望の人々に捧げる入門書。いやマジで。 ちょっと関わる仕事やってる関係もあり,八重洲ブックセンタでみかけて立ち読みして,思わず買ってしまいました。つーか,技術評論社までこういう本だすのか。。。。。。

話としては,プログラマ一年生の主人公が入社してから一開発を終わらせるまでの話ですね。そこに萌え風味・オタク風味。非常に読みやすく,またタメになります。ああ,開発ってこういうふうにするのかー と風景が見えていいかんじ。

でもいいよねー,ちゃんと作業管理してくれる先輩とかいて。
わたし,一人で企画も外部計画も内部計画も開発もデバックも運用もクレーム処理もこなしてますぜ。。。(たいしたプログラムじゃないけどさ;)

そういや,ちょっと痛かったのが「初級シスアドなんて資格として認められないぞ?」というところ。プログラマ業界では絶対履歴書には書かないらしい。基本情報技術者はそうでもないのかな,書いてなかったが。
まぁ,今回の試験で基本情報技術者にも受かったのですが(もち一発),それまで初級シスアドのみで仕事してたのですよね。まわりは勘違いしてなんでもできると開発をバンバン押しつけてたけれど・・・・・・そうだよなあ,シスアドは開発者の資格ではないよな;;

お兄ちゃんはプログラマ

(このエントリは6月4日に書きました)

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2005年05月22日

上遠野氏新作短編2作

上遠野浩平著『アウトランドスの戀』,『ポルシェ式ヤークト・ティーガー』
~ 講談社MOOK『ファウスト』Vol.5(講談社,2005.05)より。

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『ファウスト』最新号掲載の上遠野浩平氏の短編2作。2作で一編,といった作品。
上遠野浩平氏はわりと気にしている作家で,以前彼の作品のファンサイトにいりびたっていた時期もある。必ずしもよい作品を書いているという印象はないが,作品間のリンク構造を遊ぶのにハマってしまい,高校以来ずっと読み続けている。

今回の作品は,氏の代表的シリーズ(と称されている)「ブギーポップシリーズ」と「事件シリーズ」の両シリーズをつなぐ作品で,以前は雑誌『メフィスト』で似たような短編が,事件シリーズの新刊発売に前後して掲載されていた。今回のも同様の扱いで,少し前に出た『禁涙境事件』の宣伝的なものと思われる。

作品のあらすじとしては,この世界には存在しないはずの「技術」を身につけている男と,この世界においては最強と言えるだけの強さをもった女の恋物語。二人の物語が,二人の視点から,二つの作品として描かれている。世界を震撼させるだけの力をもちながら,にぶくノロマで,ぎこちない恋愛しかできない二人の物語。

作品としては淡々としているばかりで,エンターテイメントでなければ,ブンガクしてもいない。ただ,一つの出来事を複数の視点で見せることで意味を重ねる作風が例によって効いている。もっとも,物語としてはどうも途中で終わっている印象を覚えるので,おそらく事件シリーズの次巻『残酷号事件』とセットになる話が完結編になるのではないだろうか。
あと,「アウトランドス」はネーミングが総じてフランス語で,「ポルシェ式」ではドイツ語というのは遊んでていいなあ,と思う次第。

クロスオーバ,リンク的な要素を探してみると,まず『禁涙境事件』の第一の事件で登場した赤ん坊がある。また,時系列的にいえば以前『メフィスト』に掲載された「ギニョールアイの城」の続きにあたる。加えて「ポルシェ式」では過去にシリーズに登場した人物が一人と,未だ名前は出てるものの作中では一度も登場してない人物の話が語られている。
(まぁ,上遠野作品の“おっかけ”以外には用のない話ですが)

今回のファウストにはその他,上遠野氏関係の対談と批評が載っているが,それはまた今度。しかし,少し前の活字倶楽部といい(あ,買ったけどまだあんまり読んでない)何が起きてるのだ上遠野氏? むしろマイナーな作家だと思ってたのだが。

(このエントリは5/28に書きました)

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2005年05月21日

『カーニヴァル化する社会』

鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』(講談社,2005.05 講談社現代新書)


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旅行前に買い込んだうちの一冊。ほかは下記。この本は行きの車中で読む。内容は・・・・・・正直よくわからない。部分部分についてはよく飲み込めるところがあるのだけど,全体についてのまとまりがつかない。

一つの問題として,自身が社会学的な言説をあまり理解できない,っていうのがある。民俗学的な方向では肯けるアイディアはあるのだが,思想や社会学分野での言説をあまり説明せずに提示するところがあり,論理がよくつかめない。
加えて,そもそも著者自身が考えを十分消化し切れてるのか? とも疑問に思う。紹介されている言説自体はなかなか面白そうなのだが。

具体的な内容としては,

思想的な目的を欠き,ネタ的コミュニケーションのみを目的とする,社会の「カーニヴァル化」。
「私は私」と他者視点の自己イメージと自己の人格を切り分けることから来る「分断された自己」。
若者世代の就労問題にある「やりたいこと探し」と,躁鬱的な「ハイ・テンションな自己啓発」でしか維持できない労働状況。
自己の情報を外部の携帯電話やネット上のサービスにゆだねることにより,自己の意思決定を外部データベースに任せるデータベース依存。

といった感じ。

ひとつひとつの発想についてはこれはと思う要素もある。たとえば「やりたいこと探し」や「ハイ・テンションな自己啓発」については自分にも覚えのあるところであるし,データベース依存(著者は「監視社会」と言っている)は,自己知識外在化の傾向とみると,なかなか面白いところがある。

なんだけど,どうにも全体がはっきりと見えてこないなぁ,と思われるところ。「カーニヴァル化」よりも,データベースの方向のみでまとめた方がよかったのじゃないだろうか? まぁ,今後の活動を見守るとしましょう。


買った本:
福井健策『著作権とは何か』(集英社,2005.05 集英社新書)
山崎敏之『テレビアニメ魂』(講談社,2005.05 講談社現代新書)

(このエントリは5/28に書きました)

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2005年05月20日

『絶滅していく言語を救うために』

クロード・アジェージュ著『絶滅していく言語を救うために』(白水社,2004.03)

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「何事にも狂人が必要だ」 ―バン・イェフダ

前述したとおり,『消滅する言語』との関係で読み進めていた本。残念ながら時間がなく何章か読み飛ばしたけれど,なかなか面白かった。

『消滅する言語』が新書判であるのに対してブ厚い単行書である本書は,前者に対して具体例が豊富なところに特色がある。言語の衰退の推移,特性をもった言語の詳細な紹介,さまざまな言語の死の事例。『消滅する~』で簡単にしか触れられてなかった事象も多少詳しく書かれている。まるで触れられていなかったラテン語の衰退史や各国の言語支配状況など,なかなか興味深い事項もあった。

ただし,構成的なまとまりという点では『消滅する~』の方に軍配があがる。「言語危機」の入門書としては『消滅する言語』,さらに深めるために『絶滅していく言語を救うために』などを読んでいくとよいかもしれない。

また,本書の特徴としては以前のエントリーでも書いているように,「言語の再生」に注目している点があげられる。具体的にはヘブライ語の復活のことである。バン・イェフダ氏らによるヘブライ語復活の活動はなかなか示唆されるところがあった面白かった。「狂人」と自称するまでの彼の強い意志なしにはあの偉業はなされなかっただろう。なかなかカッコイイ。

「消えても復活できるから,言語の問題は二の次」なんて馬鹿なふうに解釈されると困り者だが,言語の復活というのは可能なのかもしれないな,とも思えた。それはあのヘブライ語の復活さえも微少に思えるほどの努力が必要な事業だろうけれど,必ずしも不可能ではないんだろうなあ,と。
言語が生き物だとしたら,一度生命が絶たれた後に再び息を吹き返した言語は,人々の熱意によって生命を与えられた新たなる生命だろう。クローンなどの問題もまた同じように見ていいのかもしれない。失われた生命と再生した生命とは,異なるものでありながら連続した個体。たとえばかつて,死んだ幼児の次の弟/妹をその生まれ変わりだと信じたことを思い返せばいい。死んだ言語をそのまま甦らせるのは不可能であっても,生まれ変わり,新たな母語として甦ることは可能なんだろう。それは,既に自らの母語を失った人々にとっての,大きな希望ではないだろうか?


と,以上が本書を読んでの感想。
借りた本だったので以下とあわせて返却。いずれも時間がなくて十分に読めなかったのが残念。

L.K.オブラー,K.ジュアロー著『言語と脳』(新曜社,2002.06)
大津由起雄ほか著『言語研究入門:生成文法を学ぶ人のために』(研究社,2002.04)

(このエントリは5/28に書きました)

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2005年05月19日

『からだの文化人類学』 メディアとしての肉体

波平恵美子『からだの文化人類学』(大修館書店,2005.03)

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医療人類学関係の有名な著者の作。「からだ」に対する認識の変化を日本の事例を中心に考察している。

序盤の「やせ症」(拒食症等)に関わる記述が興味深かった。
現在の自分の肉体と,自分の理想である「本当の身体」の齟齬に悩み,“食べない”という消極的な活動によって安易な解決を見つけようとする。その結果,確かにやせることはできるのだが,やせる過程での“達成感”に中毒的な渇望を覚え,絶食を繰り返す。やがて“食べる”という行為の意味を見失い,食事を楽しいと思えず,“食べられない”という病気になってしまう。

「身体がある」ではなく,「身体をもつ」。肉体を精神と不分離な総体として考えることができず,肉体を,デザイン可能な対象,インテリアや衣類(あるいは「アバター」)のようなものとしてとらえてしまうことの弊害。それが,食事の軽視や誇大視につながり,安易に食べないことを選択したり,逆に無農薬野菜に執着したり。その状況の結果として,「やせ症」のような「食べること」を失った人々が現れるのだろう。

拒食の子供との食事というのは非常に辛いものらしい。彼らは食事の喜びを感じる能力を失い,既に「何のために食事をするのか」という命題が常態となる。まるで自殺志願者が「何で自分が生きているのかわからない」と考えるような存在の疑念。彼らが食事を“試みよう”とすること自体が,会食者の食事に対する感覚に挑戦している。目の前の食事を不味そうに嫌そうに食べる人と向かいあって,美味しく食事することなどできない。

「食べること」,それはケータイなどと同じく一つの「メディア」である。それは身体に関わるメディアであり,人と人とのコミュニケーションにとっては,かつて無くてはならない存在だった。だが,かつてのような肉体と肉体でのコミュニケーションを失った現代人,「肉体」というメディアを失った人々にとっては,もはや現実に会い,一緒に食べることよりも,ネットやTV,ケータイの方が重大事になる。やがて食事,あるいは性行為などさえ,自分の必要とするものを手にするための手段という視点で見るようになってしまう。こうしたところに,現代文化の病理の一因があるように思える。

期待していたのとは別の方面だったが,面白い本だった。

(「やせ症」なんかは,前読していた『ハサミ男』とも少し絡むね。ネタバレになるけど)


こうしたことをふまえると,下のリンクのような動向があるのはいろいろと興味深い。
あと2,3年もすれば,ネットを通じてチャット相手と「握手」できるような時代も来るのだろうか?

通話相手と握手のできる携帯電話(一つのアイデア)
触覚インターフェース『ハプティックス』の可能性(触覚インターフェイスの現状)
出会い系サイト+サイバーセックスの新サービス(身体コミュニケーションとしての“サイバーセックス”)
The 3Feel Online(セックスをモチーフにしたオンラインゲーム)


マルチメディア・インターネット事典:ハプティックス
三次元感触インターフェイス(広告)

投稿者 Myrmecoleon : 06:45 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月17日

『ハサミ男』と主観の芸術

殊能将之著『ハサミ男』(講談社,1999.08 講談社ノベルス)

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『ハサミ男』,読了。いや参った。思った以上に面白かった。
叙述トリックという言葉があるが,むしろ主観トリックというべきなのかもしれない。

小説,あるいは「語り」でもいいが,
言語による作品は,それが「主観」と切り離せないところに味がある。
フルコピーではないにしろ,
「視点」を主体とする映画より,「状況」を主眼とする舞台より,
「主観」を首座とする文芸こそが,もっとも人の精神を表現しているものと感じる。
『ハサミ男』は,そんな気持ちにさせてくれる小説だった。

トリック前までは日常の中の錆び付いた狂気めいて,不思議な感覚を感じていたが,
トリックを開いてみたら喜劇だったなあ。
そう思わせないほどに,自然に構成が上手い。独特の空気がある。
いや,良かった。

投稿者 Myrmecoleon : 21:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月15日

注目ニュース ~5/15

話題の少女監禁事件

まぁ,わざわざ取り上げる必要もないぐらい話題になっている話ですが。
家出少女,ハーレム,監禁ゲーム,首輪,チャットでの誘惑,ネカマ,保護観察処分下での転居と犯罪,養子縁組による改姓,『王子様』,母親の過保護,およびその自殺。
色々な要素が絡まり,掘れば掘るほどトピックの見つかる面白い(失礼)事件ですね。

どうも親族関係の甘やかしが激しいなあ(普通,保護観察下の子供が遠方に引っ越すのを認めますか?)と思っていたのですが,もっともひどかったのが母親だったらしい(彼にストーキングされていたと称する女性の証言by適当に見てたテレビ番組)。
彼が片思いしてふられた彼女を学校まで迎えに行き,彼の家に連れて行って置き去り,その後彼に乱暴されたことを告げても「許してあげて」。過保護もいきつくところまで行ってますね。その後この母親が自殺(小林容疑者は「父が殺した」とも)。徹底的に保護されていた小林容疑者はその喪失に耐えられず,監禁ゲームにはしり,犯罪行為を行うようになった,などというのがメディアでの説明。同じくTVで流れていた彼の祖父の証言(保護観察下で犯罪を犯していても自分に責任はない,孫は無罪だと思っている,最高裁の判決が出るまで言うべきことはない等)もなんだかなぁ・・・・・・という感じ。
確かに犯罪を犯したのは容疑者本人である。この不幸の責任は彼にある。とはいえ,彼をここまで追い込んだ家庭環境,その彼に惜しげもなくマンションや生活費を送ったと見える両親の行動,一度の犯罪発覚にも関わらず執行猶予に止めた司法,その彼が犯罪を犯すのをまるで止められなかった保護観察制度。そうした周囲の不備がなければこの事件は起こらなかったのだろうなぁ,と。

色々と困った事件ではある。ただ,これを契機に諸制度がもう少し真っ当になればよいですなあ。既に動きもあるようだし。


北朝鮮空爆の噂

核実験阻止へ先制空爆立案 米軍、B2など動員と報道
ステルス戦闘機を韓国派遣へ-米
米軍、グアムにF-15E戦闘爆撃機を12機配置

あくまで“噂”で政府筋なんかは否定してるわけですが。北朝鮮の核実験と呼応して米軍が動いているようです。まぁ,ちょっとは注意しておいた方がよいことかもしれません。


レイアウト自由のキーボード自作キット登場

キーボード自作キットなんてあるんですねえ。パワーユーザほどキーボードの悩みは色々あるとか。なかなか人気があるらしい。使いづらいQWERTY式を脱却して,インターフェイスまでカスタマイズする時代が近いのかもしれません。


「著作権侵害だ、自業自得」とHDDの全ファイルを消去するウイルス

「You did a piracy, you deserve it(お前は著作権を侵害した、自業自得だ)」

HDDの全ファイルを上記文章のテキストで上書きし,その上で全ファイルを削除するという最悪のウィルス。ファイル復元も一切不可(復活するのはすべて上記テキスト)。勝手にメールを送ったり,ファイルに感染して他人に転送するなどの機能はないようで,おそらく被害にあう人は少ないだろうけれど,ただただ破壊力が恐ろしい。

どのようなところに散布されているのかは不明。
文章からしてP2Pか違法ファイルサイトでしょうか。
感染してもメッセージなどは一切ないが,即時マシンが立ち上がらなくなるのですぐわかります;

著作権に留意するのはもちろんとして,怪しい実行ファイルにはご注意を。


MITにならえ──国内6大学が講義をネット公開

日本 OCW 連絡会
slashdot Japan

昨今の大学関係ではe-learningというのがわりと話題です。自分の職場なんかもわりとそのへんところが五月蠅い(図書館だけが叫んでも何もなりませんが)。簡単にいえば,インターネットとソフトウェアの技術を利用して,遠隔地教育や時間差教育,あるいはこれまでにできなかった新しい形の教育を実現しよう,という活動です。具体例としては,あるキャンパスの講義を別キャンパスでも好きな時間でも受けられるようにしたとか,授業のレジュメをPDFで配ってメールで課題を提出させるとか。

で,この領域で一番進んでいると言われていたのが,MITの「Open Course Ware」でした。このサービスは,MITで開講している多数の講義それぞれについて,講義のシラバス・資料・講義ノート,あるいは講義風景の映像などを電子化して公開しており,MITの高品質な講義を仮想体験でき,社会学習と関連して非常に重視されています。

今回,これと同様のことを日本でもやることになったそうで,今後が非常に期待されます。あるいは自分とこでやることなども考慮におかないといけませんねぇ。

ちょろちょろ見ると,本気で学生の講義ノートがそのままアップロードされている所もあれば,講義で使ったと見えるパワーポイントが載せられているところ,レジュメ風の文章の羅列だけが載っているところなどさまざま。日本語のみ,英語のみ,日本語英語両方など公開の仕方もさまざま。統一化よりも,それぞれの思惑にそった個性化に向かう様子。
当然考えられる問題として,
著作権の問題(講義では著作権の例外で許される転載も,公衆送信となると許諾が必要),
協力者の問題(教員によって理解がなかったり,あってもコンテンツを用意する能力がなかったり),
管理者の問題(上記のような問題に対し,管理側がちゃんと舵取りをする必要がある),
があり,ほとんどの大学で一部の講義分しか公開してない,あるいはほぼ完全公開している東工大についても概要以上のものが載っている講義が少なく(現時点では)実質的には電子シラバスの延長でしかない,などの状況を見ると,どこもかなり苦心していると想像される。

自分の母校が全講義について電子シラバスが公開されているという当時にしては珍しいところだったのですが,以前そこで「シラバスを見て講演の依頼が来たことがあるよ」と言っていた教員がいたのを思い出しましたねえ。
大学の講義は未だネット上にない知識(古いのも新しいのも)の宝庫ですから,GoogleやBNなんかの図書電子化活動とも呼応して,ネットの電子図書館化を推し進めることになっていくのかもしれません。少なくともたった今利用できるインターネット上の資料として,図書館員としては大注目するべき事柄ですな。チェックチェック。

投稿者 Myrmecoleon : 12:12 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月14日

ブログと解雇

なるべく職場に問題のないような方向で,ブログをやっていこう,みたいなポリシーを出してはいるのだけれど,そのへんの問題についてイマイチうろ覚えなところがあったので,少し調べてみた。

事例としては以下のようなものがあげられる。

事例1. 2002年,ヘザー・B・アームストロングの場合

企業名は明かさず。Xmasパーティで聞いたことなどを記し,その後解雇された。
詳細未調査。彼のサイト名 dooce.com より,「自分のWebサイトが原因で職を失った」という意味の「dooced」という言葉が作り出されたとか。

http://atown2.exblog.jp/2230132/

事例2. 2003年,元Microsoft契約社員 マイケル・ハンスコムの場合

Microsoft社は,Blog中にオフィスの建物のことを書いたことをあげ,セキュリティの侵害にあたるとして彼を解雇した。
しかし,Microsoft社にAppleのコンピュータが運び込まれる写真を掲載したことが問題になったと言われている。

http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20041208201.html


事例3 2004年秋 元デルタ航空客室乗務員 エレン・シモネッティの場合

機内で制服姿の写真を掲載した数週間後解雇。
明記してはいないが写真では明らかに社名がわかり,また下着がわずかに見えているなどもあってか。現在も係争中らしい。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0412/22/news048.html
http://www5.big.or.jp/~hellcat/news/0410/28a.html


事例4 2005年1月 元Google社員 Mark Jen の場合

IBM,Microsoft,Googleと転職してきた凄腕。
Google社内での生活を,批判を加えながら書いたBlogが問題になる。
Blogを始めてから11日のスピード解雇。本人はあっさり受入れ,飄々とした様子。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0502/17/news072.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0502/14/news077.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0501/27/news067.html


こうした事例は,もちろん氷山の一角なのでしょう。

あ,日本でも事例はあるみたい。話題になってないけど。
"21世紀最新型「一身上の都合」"とか"拝啓、Mr.Mark Jen"で検索してみませう。
まぁ,実名出して常務の悪口を書いていたそうだから,目をつけられるのはしょうがないか。。


調査・提言などとしてこんなところでしょうか。

http://atown2.exblog.jp/2230132/
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0504/11/news034.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0504/23/news010.html
http://slashdot.jp/askslashdot/04/12/10/0017258.shtml?topic=91


さて,こうしたデータを見渡して,「企業に目をつけられないブログとは?」と考えてみる。

主な事例を見ていると,よく事情のわからないアームストロング氏を除けば,
企業の内情を語り,企業イメージを損ねる,といったあたりで問題になっていたのだと思われる。
またいずれも,職場が特定できる確たる証拠があったことが共通点としてあげられる。

電子フロンティア財団の提言だと「匿名であること」が大切だという。
少しでも個人情報が混じれば,即座に特定できてしまうよ,ということらしい。
書き込みなどもプロキシを使い,ホストも本名を要求しないところを使え,とのこと。

でも,一切個人情報を入れない,って難しい。
自分の購入記録とかだって,探しようによっては立派に個人特定できそうだ。

イスラエル氏は「企業秘密を漏らさない、これに尽きる」とのこと。
そして「ブログ上でバカなことをするな」である。


結局のところ,

1. できるだけ匿名に(最低でも実名,固有名詞は出さない)
2. 見つかって困るようなことも書かない(飲み屋の席で話すような感覚にはならない)
3. 公共の場とわきまえて,良識的な言動に慎む。

ということになるのかもしれない。
2,3に関しては,社会人としては当然のことなのかもしれない。
blogという場所は個人の日記帳ではなく,スポーツ誌の一コラム並には公共的なものなのだろう。そんな場所に企業の内情を書くのなら,相応の覚悟と準備をもって行え,というところだろうか。

まぁ,とりあえず,

企業名,人名,企業に関わる固有名詞が特定できるようなことは一切書かない。
企業機密,内情などはできるだけボヤかして書く。または書かない。
同僚や上司に対して,自分のサイトであるということは,信頼のおける人物以外には教えない。

といったところだろう。このあたりを自身に銘じて今後の活動を続けたいと思う。

もちろん,もう一つの対策として「上司と相談の上で,問題のない事柄だけを書く」なんてのもあるが,現在の日本の企業風土でそれが認められる可能性はほとんどないと思われる(そもそも上司にWeb上のプライベートまで教えたくないなぁ;)。

また,職場のことは一切書かない,っていうのも端的な解決である。
とはいえ,現在考えているここの方向性から言って,この選択はとりあえず保留としたい。


(まぁ,まだまだ日本ではよっぽどバカをやらないかぎり,そういう問題は起きないだろうなあ)
(そもそも,ここがメジャーにならないかぎり心配することじゃないだろうって話ですしねぇ)

投稿者 Myrmecoleon : 17:05 | コメント (1093) | トラックバック

入手記録 5/11~5/14

買った本:

松原望著『統計学100のキーワード』(弘文堂,2005.04)
ちょっと読んだら密度が濃くて面白そうだったので。統計関係も勉強しなきゃなー

F.W.ニーチェ著,適菜収訳『キリスト教は邪教です!』(講談社,2005.04 講談社+α新書)
タイトル買い。ニーチェ『アンチクリスト』の現代語訳。

白倉敬彦著『江戸の男色』(洋泉社,2005.04 新書y)
「男色図」に材をとった江戸時代の男性売春事情の本。ちょいツボにハマった。

莫邦富著『日中はなぜわかり合えないのか』(平凡社,2005.05 平凡社新書)
いわゆる時事本。ちょっとはネット以外の教養をつけておきましょう。

諏訪哲二著『オレ様化する子どもたち』(中央公論新社,2005.03 中公新書ラクレ)
少し前に他人様のサイトぶらついてて興味をもつ。教育関係


借りた本:

田中利光著『ラテン語初歩』(岩波書店,1990.02)
ラテン語に興味をもったのでお勉強。さすがに返すまでにマスターするのは無理と思うがツナギで。

田村泰著『大きなかぶと'The Big Carrot'』(三友社出版,2004.08)
パラパラ読んでたら面白そうなことが書いてあったので。

投稿者 Myrmecoleon : 14:40 | コメント (0) | トラックバック

読書記録 5/8~5/14

クロード・アジェージュ著『絶滅していく言語を救うために』(白水社,2004.03)
(読書中)

『消滅する言語』を読んだ関係で。まだ最初の方しか読んでいないけれど,似たような主題ながら立場が微妙に違うのが感じ取れる。
『消滅する言語』では,言語の死の予防が主眼で,失われた言語はまず戻らない,というのが立ち位置であったように思える。それに対し,こちらではソシュールのラング/パロールの分類を出して「パロールの死は言語の死ではない」と主張し,現代ヘブライ語の再生を多く紹介している。こちらの立ち位置は予防<再生であるように感じる(まだ途中だが)。

自分は,確かに言語の再生はありうると思うのだが,それが本当の意味での「再生」でありうるのかについては疑問が残る。確かに,ヘブライ語は見事に復活した。けれど,それは複数の一神教の原典であり続けたというヘブライ語の特別な事情によるものではなかったか,などとも思うし,そうでない言語が再生を遂げられたとしても,言語にとって重要な部分が欠けたりはしないか,とも考える。

著者は「話者の消失はパロールの死であり,ラングの死,つまり言語の死ではない」とする。これは生物には見られない,言語独特の性質であり,だから生物の死とは違い,言語は再生することができると言う。しかし,生物学の立場からいっても,「ある種の生物の絶滅は,種の絶滅ではない」と似たようなことが言えないわけではない。実際のところ,現実に歩いている諸生物は遺伝子の発現,表現型に過ぎない。ラングとパロールの関係は,遺伝子と生物体との関係に等しいとわたしは考える。たとえ生物体が絶滅しても,人類は遺伝子からそれを再生成する方法を見つけるだろう。
だが,それで種が再生するわけではない。生物は生態系の中で生きていくものであり,ある生物の失われた生態系は,二度と元の環境には帰らない。あるいは動物社会の生活パターン,鳥やイルカの歌声,それらはある程度は解剖学的特徴に起因するものであっても,ある程度学習的な方法によって身につけているものである。人類とも違う,彼ら独自の教育法によって引き継がれていく知識が確かにある。これは遺伝子から再生成されただけの生物体には決して身につけえないものだ。単に標本をとるばかりではなく,科学者たちが生物の絶滅を防ぐ活動を続けているのは,そうした部分もある。

言語の再生についても同じ問題がある。文法と語彙,発音をすべて記録してあったとしても,そこに人々の生活感覚が伴わなければ,言語として復活することは難しい。また,かつて話されていた時期と再生した時期では環境も違う。かつて栄えた文化は言語の消失とともに衰退しただろう。そして新たな文化を古い言語が表現していくのは非常に困難であると思われる。時代に応じて変化していった言語でなければ,その時代の文化環境には適合しえない。一度でも死んだ言語は,二度と同じ血と肉を持って甦ることはできない。

そう,思うのだけれど,自分は現代ヘブライ語の再生の事情などについてあまり知らない。自分の批判が有効なものであるか,的外れなものであるか,あるいは既に解決策が存在するのか。読んでいくのが楽しみである。


逸身喜一郎著『ラテン語のはなし 通読できるラテン語文法』(大修館書店, 2000.12)

図書館のカウンター当番中に見つけた借りた本。ライトなラテン語入門書。ラテン語の名句を紹介しながら,ラテン語の文法,現代の諸言語への影響,ローマ時代の思想などについて触れていく形式。まずラテン語というのがどういう言語なのか理解したい人にいいかもしれない。

非常に興味深かったのが,「語順自由」というラテン語の特徴。

英語やフランス語では,文章は必ず(例外はあるが)「主語・動詞・目的語」の形式をとります。
動詞の前に来るのは動詞を修飾する助動詞や副詞と,主語を表現する名詞句のみ。
これらの言語は,動詞や助動詞の位置を変えることで疑問文や命令文を作りますが,
そのために「動詞・目的語・主語」のような変形は許されていません。

日本語は多少融通が利いて「(主部等)・述部」の形式になります。述語(述部)が(正式の文では)必ず最後に来なければいけないという鉄則はありますが,それ以外は助詞の付け方によってどのような順序においても文として成立するという自由があります。

これらに対し,ラテン語では一文の中のどこにどの単語があってもかまいません(前置詞など,一部の例外はある)し,それでも文意がとれるという特殊な性質をもっています。英語でいえば,

This is the white book. を,
book this the is white. などのように適当に並べても意味がとれるようになっています。

なぜこれが可能かというと,英語では複数形・過去形・過去分詞などにしか残っていないような語の変形が,ラテン語ではすべての単語について存在しているためです。たとえば名詞・代名詞・形容詞は複数と単数,三つの「性」,六つの「格」の,2×3×6の36通りの変形があります。動詞は英語にもある態・時制・人称・数,そして直説法や接続法などの「法」の変形があり,すべてをかけると100以上の変形があります。
ラテン語ではこの無数の変形により,どの語がどの語と関連するかどうかがわかるようになっています。形容詞は修飾する名詞と同じ変形をするようになっていますし,動詞はどの格の名詞をとるかがある程度決まっています。このため100%確実とは言えませんが,多くの場合文の解釈を一意化することが可能なわけです。

最近,生成文法(人類共通の「普遍文法」があると考え,すべての文法はそこから生成可能とする学説)も少し勉強してるのですが,言語の多様性を考えるにあたっては,動詞を前に置く英語と後ろに置く日本語,そしてどこにおいてもかまわないラテン語と,色々知っておくのは面白いなあ,と思った次第。ローマ時代に無数の詩や文学が編まれた背景にも,ラテン語の語順自由な性格なんかが影響してるんでしょうねえ。

この本はそういう,ラテン語の導入書としてはなかなかよい感じでした。
ただ,マジメに学習するのにはちょっと辛いので,そのつもりなら別の学習書が必要ですね。
自分もラテン語勉強したくなってきたなあ。


原秀則著『電車男』1 漫画版(小学館,2005.04 ヤングサンデーコミックス)

テキスト版『電車男』は,書店で立ち読みして面白いと思い,ネットでログ読んで疑いつつも感動した“作品”です(書籍版を通読したことは無し)。後日いくつかの検証サイトに目を通して,あきらかに不自然な点があることを確認し,現在のところクロに近い灰色ぐらいで理解しています。以降の「Web→出版」運動激化の要因として,それらに対するダーティな言説の原点として考えると,なかなか意義深いものがありますね(近頃だとココログ出版とか)。

まぁ,そんな作品なので漫画版もあまり期待はしていませんでした。連載読んでないし。でもあれですねぇ,そんな作品だとわかっていながら,読んでいてニヤけた笑いをかみ殺してしまうのはなぜだw ううむ。

仮に電車男のストーリーがほぼフィクションだとしても,あのテキスト群は(ある種の)読み手に妙な感動を覚えさせるようなところがあるな,と思うのです(漫画版については描き手の技法にも依存してると思いますが)。“作者”が文豪だとは言いませんが,口承文芸的な場(2ちゃんねる)を通じて生成された一種の文学だと考えてやった方がよいのかもしれません。そういう意味では『電車男』は評価できるし,素晴らしい“作品”である,と見ていいのではないでしょうか。

しかし,映画化にTVドラマ化かあ。。。
なんだか様々な誤解が世間を蔓延しそうな予感バリバリだわい。


中里融司著『狂科学ハンターREI』 1-5巻(主婦の友社,1996.06-1999.01 電撃文庫)

科学の歴史の中には,その成果が認められず,正当な学問系統においてその後継者を得られなかった知見,命題が多数ある。その多くは,実際のところ妄念から来る誤りに過ぎないと判断されているが,そうではなく,彼らの思想に世間がついていけなかった,あるいは危険を覚えた者が研究を妨げたのだ,とそのように言うものも多い。
疑似科学,オカルト,トンデモ本,ブードゥーサイエンス,エセ科学,そうした領域に投げ込まれているさまざまな研究は,無数の科学的な反証を与えられながらも,依然として多くの人によって信じられている。また,信用はしないでも,そうした研究の動向を面白がってみるものも多い。なぜ人々がエセ科学を信じるのか,どのような構造があるのか,それに対する心理学・民俗学的な考察は非常に興味深い。
以前,自身もこうしたところに引かれて,科学と疑似科学,および俗信を交えた上での知識の伝承の問題について考察してみようと思ったことがある。また,それとは別に,魔法や超能力と並んでそうしたトンデモ科学が活躍するようなフィクションを考えていたこともあった。今回この本を読むことにした契機はそういった縁から“気になっていた”ことにある。

この著作は,そうした疑似科学的な研究が真に有効なものであったという設定の元,狂科学・秘宝科学とも表現されるその技術を有する秘密結社と,そこから離反した主人公との対立を描く仮面ライダー的な小説である。結社は狂科学の研究のため,多数の人々の人生を歪め続けてきた。主人もまたは結社の研究のために姉を失い,そうした研究すべて,狂科学を憎んでいた。しかし,その研究によって生命を得た愛らしい少女との出会いにより,狂科学,逸脱した科学であっても,人々の理想を追い求めた営為の結晶であり,それは単純に否定すべき事項ではないのだと気づく。

善悪の単純な対立ではなく,媒介者を置くことで弁証法的な運動に向かうというのは基本をふまえていて好感は持てた。ただ好みの問題だとは思うが,文章や演出,構成についてはあまり評価はできない。「不釣り合いな胸と腰」とか記号的な表現はどうにかならんものだろうか;

ちなみに,好きなキャラはオーギュスト公爵と月形さんですね。
冷静だが心根は熱く,的確に行動しクールに一番いい見せ場で登場する公爵と,
頭も心もひたすら熱く,ひたすら暴走し,物語上も不当な立場をしいられ続けた月形さん。
かっこいいですお二人さん。
ほかは正直どうでもいいや(ぁ

投稿者 Myrmecoleon : 14:30 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月12日

おしごとおしごと。

おしごと。なんか修羅場×修羅場になってきましたワ。
上司が思いつきで色々仕事を作り始めました。ちょっち厳しいかも。

とはいえ,ここのところがたまたま凪だっただけで。
一年目の激動を考えたら序の口序の口。
上のワガママも無思慮も今や諦観。

よく理解もしてないのに仕事をまわすのですよね。
自分の思いこみを正当化するためにデータを出せとか。
言う相手が間違ってるだろうそれは。
指示は調子はずれなことばかり。
自分で統計作れない人間に統計が読めるとも思えないのだけど,
まぁ,自分くらいは誠実にやりましょうかね。
(やろうと思えば恣意的なデータなんていくらでも出せるんだがなあ)


とまぁ,忙しいのだけど,
むしろ,ショックなのはここのところドジが目立つところだろうか。
やはり連休明けで調子が悪いのかなー。ううむ。

投稿者 Myrmecoleon : 00:13 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月10日

お仕事もいろいろ詰まって来ました。

ここのところのパターン。

→修羅場。
→ばばーっと仕事を終わらせて空白ができて暇になる。
→仕事がないので適当に仕事を作る。
→新しい仕事が流れてきて再び修羅場。
→ばばーっと(ry

いまは修羅場フェイズですけど,波も繰り返してると慣れるもんですねぇ。
このへんをこう絞れば,ここらへんで余裕だな,ってのが見えてくる。

最初は2週間かけてた仕事も,今では2日で終わる。
長くからみそうだった問題も,翌日ちょいと調べて解決。
例によって天狗ですよ。。。ったく。
ちょっと頑張った程度で天狗になれてしまう職場はやはり不満。

まぁ,今は適度に仕事があるので満足。
今月は旅行の予定もあるので,そこまでに一通り片付けてしまう所存。


最近ちょっと気づいたこと。
学生と軽い雑談をするのを楽しみだしてる自分がいる。いい傾向かな? うん。

投稿者 Myrmecoleon : 22:08 | コメント (0) | トラックバック

5/8~5/10

借りた本:

ノルベルト・ボルツ著,村上淳一訳『世界コミュニケーション』(東京大学出版会,2002.12)
以前書店で見つけて気になってた本。メディア論がらみ。

ハンス-ヨアヒム-ノイバウアー著,西村正身訳『噂の研究』(青土社,2000.01)
上の本を探してて目に入る。口承文芸がらみ。

浅野楢英著『論証のレトリック』(講談社,1996.04 講談社現代新書)
図書館をぶらぶらして見つける。レトリックとパラドックスはなかなか縁深い。

殊能将之著『ハサミ男』(講談社,1999.08 講談社ノベルス)
以前気になっていた小説。

柘植久慶著『グーテンベルク聖書奪回作戦』(角川春樹事務所,1999.12 ハルキ・ノベルス)
“グーテンベルク聖書”で衝動借り。柘植さんにR.O.D.みたいな課題を与えるとどうなるのかが楽しみ。

中里融司著『狂科学ハンターREI』 1-5巻(主婦の友社,1996.06-1999.01 電撃文庫)
昔トンデモ科学関係に興味もってた縁で気になっていたシリーズ。最近,専門外の専門書ばかりで頭が痛くなってたので(ぁ

豊沢豊雄著『著作権の取り方・生かし方』(実業之日本社,1993.11)
著作権のお勉強を,ではなくて,ちょっと読んだら「ああ?」っていうような誤解の混じった説明があったので,ちょっとマジメに調べてみたくなったため借りる。著作権の“取り方”って・・・・・・(日本では著作物は作った時点で著作権が発生します)。


返した本:

私市保彦著『幻想物語の文法』(晶文社,1987.04)
部分読みで返却。古代から現代に至る神話~幻想文学の分析。ちょっと面白かったが,読んだことのない作品については楽しめない。数編のみ読んで返却。むしろ紹介されてる古典なんかの方を読んだ方がよいなあ。

ノーム・チョムスキー著『生成文法の企て』(岩波書店,2003.11)
生成文法に興味がわいたので借りてみたが,学術用語の渦で半分読んで断念。面白そうな考え方をする人だとは思ったが,楽しめるだけの知識がないなあ。。。。

投稿者 Myrmecoleon : 22:00 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月07日

土曜の夕方アニメなどを見ていて。

運種(「機動戦士ガンダムSEED DESTENY」の通称)がそろそろ面白くなってきました。
前作SEED,今回のDESTENYともに,戦争の悲惨さ,矛盾,それに巻き込まれる少年達の葛藤,なんかが一つのテーマになっています(というか,ガンダム以来の共通テーマですな)。ここのところの回で,そのあたりがかなり強調されてきてますね。

早く愚かな戦争を終わらせるため,正当な戦闘によって事態を終結させようとするアスラン。
平和への理想を同じくしながら,妹の嘆きのために,知って戦場の混乱を引き起こすキラ。
そして戦争に家族を奪われた怒りだけを胸に,かつての恩人すら斬り殺すシン。

葛藤,矛盾。そして旧作のツギハギで作られた本日の「FATES」では,かつての悪の総元締め,クルーゼによってそんな現実すら「無意味だが,たとえ無意味な道だって,進むしかないだろう?」と救いのない言葉によって総括されてしまう。

今回の運種で描かれているのは,どうも「誰もが間違った世界」であるようです。
どこに落ちつくのか読めませんねえ。きっと監督も考えてないでしょう(ぁ


で,悪口と賛美を言いながら見てたわけなんですが,ふとアニメや漫画以外で,こういう戦争の悲劇とかを良質な娯楽として見せている作品って日本にあるかな? と,ちょっと疑問が浮かびました。
アニメなんかではまるで珍しくありませんね,こういう悲劇。確かにリアリティに欠けるかもしれませんが,それに触れること自体で,感触をつかめる部分もあると思います。
戦争への想像力を深めるという点で,ある面の良い影響を起こしてきたのは事実ではないでしょうか(悪い影響もあると思いますけど。主役ロボットでズガガガーン,とか)。
しかし,これに相当するものを他の媒体で探すと,戦場の悲劇とか矛盾なんかは,かなりお堅い文脈でしか表現されていないように感じます。特番とか映画とか。
まぁ,トレンディドラマでこれを表現するのって難しいとは思いますけどねぇ。映像をぬるく作るとダメ特撮にしかならないし。SFやファンタジーの世界観でしか表現できないものなのかもしれない。

ただ,そういうことを考えると,たとえフィクションでも戦争の悲劇(まさしく「悲“劇”」ですネ)が毎週当たり前のようにTVで流れてる日本って,なんなんだろうな,と。戦争になんてみんな行ったことがないのに,誰もが当たり前のように戦争を知っている。不思議な国です。

投稿者 Myrmecoleon : 20:09 | コメント (0) | トラックバック

読書記録 5/3~5/7

書いてないなあ,ブログ(ぁ

まず,書くことから始めよう。うん。GW寝てばっかだしな;

朱鷺田祐介著『クトゥルフ神話ガイドブック 20世紀の恐怖神話』(新紀元社,2004.08)

いわゆる「クトゥルフ神話」に関する著作の解説書。解説の中心はラブクラフトの著作群であるが,彼の周囲の作家,あるいはダーレス以降の世代のみならず,現代日本のライトノベルや漫画,美少女ゲームまでを視野に入れた希有な著作。主な作品についての簡単な解説と書誌情報,および日本語で読めるものについてはその掲載図書別のリストがついているため,調べ物などにも有効。
以前,珍しく本を選ぶ機会があったとき(うちの図書館は,司書に選書の権限がないのです)数十冊の本に混ぜた一冊だったりする。やはり学生に食いつきが良かったらしく,本が返却されたところを借りました。「こういうところからも近代アメリカ文学の研究にも入れるんじゃないか」というのは半分建前,半分本音。
というか,ひさびさにクトゥルフ読みたい熱が出てきました。いや,未だにラブクラフト作品完読したことないのですが;

山内昶著『ヒトはなぜペットを食べないか』(文藝春秋社,2005.04 文春新書)

少し前に大学の生協で買った一冊。動機はタイトル。ただ,想像したとおり,大学時代の専攻に関わる著作でした。
世界各地のイヌ・ネコ喰いの事例・歴史の紹介からはじまって,近親相姦のタブーとの相似を解説し,文化人類学者E.リーチのタブー論「境界→タブー」,および日本民俗学の「ケ→ケガレ→ハレ→ケ」説を通して,なぜ現代人が「ペットを食べてはいけない」と考えるのかを説明しています。

かつて人間社会は,社会を維持するための様々な制約,タブーを設け,またそのタブーを解放する祝祭によって,カオスとコスモスのバランスを取り,社会を維持してきました。こうした習俗はやがて文明化,文化化,近代化によって衰退し,現在のような消費と娯楽の嵐が常という社会になり,多くのタブーが失われたのですが,そうした中で近親相姦やペット食についての禁忌のみが,タブーとしての機能を果たしている,というのが著者の論です。

表題の解答は,端的にいえば「ペットは自己(=人間)としての非可食物ではないが,完全な非自己(=非人間,仲間外)でもない,境界的な存在であるがゆえに,食品として認めることを忌避されている」といったところでしょうか。見方としては面白いし,受け入れられるものですね。まぁ,これと近親相姦が人類最後のタブーとかいう見方は誇大だなあ,と思いますが(まだ殺人とか自殺とか色々ありますね)。

大学時代の文化人類学の講義を思い出しましたね。E.リーチとか懐かしい。

投稿者 Myrmecoleon : 19:06 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月03日

読書記録 5/1~5/3

森薫著『エマ』1~5巻(エンターブレイン,~2005 ビームコミックス)

ずいぶん以前から話題になっていたので。立ち読み。
良いですね。特にあとがきのはっちゃけっぷりが。

浦沢直樹・手塚治虫著『PLUTO』1巻(小学館,2004.11), 同2巻(小学館,2005.06)

ちょうど2巻が出ていたのもあり,同じく話題にひかれて。
期待過剰だったが,それを差し引けば非常に素晴らしい。
人間と同じなんだ,でなく,
精巧にできている,でもなく,
ロボットの感情,というのを上手く表現しているように感じた。

森岡浩之『優しい煉獄』(徳間書店,c2005 トクマ・ノベルズ EDGE)

MMORPGのようなシステムで,死人が自分の“死後”を貯金で買う世界の物語。
発案は昭和末だそうだけど,現在のMMORPGなんかの空気があります。
アップデートが進むにつれて不便(=リアル)になっていく,という設定がウケる。
微妙な倫理問題が的確かつ入れ込み過ぎずすっきり流れていくのが良い。
しかし何がすごいかといえば,
こういうSFを「ああ,ありそう」と受け止められる現実でしょうか。

投稿者 Myrmecoleon : 13:45 | コメント (0) | トラックバック

長文はあんまりそぐわないかな?

どうも文章が長くなる傾向がある。伴って更新頻度が低い。
もうすこしすっきり編集して,頻繁に更新していく方向で。

投稿者 Myrmecoleon : 13:42 | コメント (30) | トラックバック

2005年05月02日

『消滅する言語』と図書館員の出来ること。

ディヴィッド・クリスタル著『消滅する言語』(中央公論新社,2004.11 中公新書)

しばらく前に買って積ン読になっていた本。
ちょっとした事情で言語学関係の興味がわいたので読む。


ある言語学者がある言語を話す最後の話者を尋ねると,
彼女は2時間前に亡くなったと聞かされる。そんなことの繰り返し。

著者の試算では,いま2週間に1つのペースで言語が消滅しているという。
単語のレベルの問題ではない。日本語や英語といったレベルでの言語が消えている。
現存する言語は約6000(±2000)。今後100年で,この半数の言語が消える。
その現実,その脅威,その前で我々が何をすべきで何ができるか,その慨述である。

言語危機というこの現象についてまるで知らなかったわけではないけれど,
実際を知ると,やはり戦慄する。

自分のかつての専門である民俗学,たとえば口承文芸研究にも似たような状況がある。
ある地方の昔話を話せる話者は年々減っており,
苦労して見つけた話者も,翌年にも話を聞けるとは限らない。
こちらは言語以上にスパンが短いし,言語以上に重大事とは見られていないだろう。

まして,言語がなければ口承文芸もありえない。
言語の消滅は,
無数の物語の消滅であり,
その背後にある無数の人々の,営為の消滅である。
人々の気質,生活風土,歩み続けてきた経験,
それらと密接結びついたかけがえのない言語。

言語という地盤と引き替えに,
鬱蒼としたジャングルは奈落へと落ちる。


この本に書かれているのは,そんな「言語の死」と必死に向かい合う言語学者たちの意志である。

救うべき話者たちに誤解され,罵倒されていく葛藤。
倒れていく人々を前に,言葉を書き留めるだけという矛盾。
活動の意義さえ理解されず,無関心が機会を踏みつぶしていく孤独。
正義の味方よろしく,助けられる言語は選び取られた言語だけであるという自問。
文化への介入が正しいのか,このまま自然に任せて待つべきではないか,そんな正論さえ,覆しきれない苦悩。
そしてそんな苦悩とは無関係に,
一つまた一つと言語が消えていくという現実。

確かに,紛争・貧困・疫病・圧政・災害,そんな身に迫る脅威と比べて,
言語の問題など,些細なことかもしれない。
言語などは二の次三の次。一冊の辞書より,一斤のパンを。
それはすごくまっとうな意見だろうと思う。

けれど,失われてしまったものが二度と取り戻せないのは,
人の命も,希少な動物も,そして人の営為の果てにある言語も同じである。
たとえ幾つもの問題があるとしても,
自分は彼らのような活動を,大いに支持したい。


さて,では言語の危機を理解したとして,では我々に何ができるのだろうか?
もちろんこの本にはそのことについても書いてある。

たとえば,言語の死を引き起こす明確な原因の一つが貧困である。
話者たちの社会に経済支援し,産業などを盛り立てていくことが有効である。

また,危機言語話者たちの意識の改革も重要だ。
ときに自身の言語に否定的であることがある。
彼らに語りかけ,その認識を改めさせていくことも大事だという。

あるいは,言語教育のための準備。
内部からの,言語を教育でき,あるいは研究できる人材の発掘と育成。

もちろん,政策や法制度に対しても活動していくことが大切だろう。


だが,こうしたことはそれなりの訓練を受けた言語学者であったり,
政治的・経済的な力のある人間しかできない作業である。
ここで,自身の図書館員という立場をふまえて考えてみるとどうだろう?

たどりつくのは,この問題が人々に理解されていないという現実である。
言語危機の問題は,言語学者と,一部の運動家や知識人,
そしてたまたまそれを知った自分のような人間くらいにしか共有されていない。
それは教育やマスコミなどの問題でもあるのだろう。
そして勿論,我々図書館員の責任でもあるのかもしれない。

だから,この問題を知らせるということ。
こうした問題を理解し,どのような資料があるかを把握し,
それを利用者の目に触れさせ,提供していくということ。
それが図書館員にできる唯一の,そして最大の貢献であると思われる。

無論,現実の危機言語と近い距離にある図書館であれば, もっと別の貢献もありうるだろう。
単に発行された文献を蓄積するのではなく,言語学者などと協力し,
その言語の記録を発掘し,また新たな記録を作成し,地域資料として提供していくことも重要である。
もっと広い幅で考えてみれば,地域の方言を集めるような業務も,
こうした危機言語への予防の一端であるのかもしれない。

近年,図書館でも「多言語サービス」というものが言われている。
危機言語に対する取り組みは,その延長,あるいは一部といえるものかもしれない。
その意義を理解し,実行していくことが大事だろう。

この本を読み,そんなことを考えた。


関連リンク:
wikipedia: 危機に瀕する言語
日本語で読む「危機言語」
NPO法人 地球ことば村・世界言語博物館


あと,この本の書評なんかもちらほら見つけたけれど,
トラックバッグの方法とか作法がよくわからんので以降。

投稿者 Myrmecoleon : 21:26 | コメント (43) | トラックバック

2005年05月01日

いきなりおサボり

ダメですね。いきなり二日サボっちゃいました(書いてるのは5/2)
気負い過ぎもいけませんねぇ。

4/30は概ね家でゴロゴロしてました(ぁ

本読んだりチャットしたり寝ころんだり。
これじゃいけないと思って2時間ばかり夜道を走ったり(ぁ
川辺が涼しかったです。

夕食はあるものを適当に。
豚肉を焼いたのと,卵かけ納豆でごはんを一杯。


5/1は反動で朝から町に出ました。
近所の図書館,書店をめぐる。
こちらに住んで一年,はじめて県立図書館を利用しました(ダメ図書館員
行こうと決めたのは前日なのですが,いい具合にTVで紹介番組がやってたり。

県立図書館は,どうもすっきりした印象を覚えました。
蔵書は職場とそれほど変わらないと思うのですけどね。
広さならウチのがあるはずですし。書架の配置の仕方でしょうかね。
うちの,学生向けに学習向けの閲覧スペースが広いことが原因かもしれない。
館種の違いもあるのでしょうが,
もう少しレイアウトを考えなきゃいけないのかもしれません。

レイアウトといえば,館内の略図がもらえたのがよかった。
あるとないとで大違い。便利べんり。
というか,職場の館内略図もいい加減改訂せんと;;

(自分のところの不備ばかり目につくってのも困ったものです)

二軒ほど書店をまわり,モスバーガーにて夕食。
疲れて帰ったのでブログを更新せずに就寝。。。

そんなこんなで借りた&買った本。

購入:

浦沢直樹・手塚治虫著『PLUTO』1巻(小学館,2004.11), 同2巻(小学館,2005.06)
森岡浩之『優しい煉獄』(徳間書店,c2005 トクマ・ノベルズ EDGE)

雑誌『活字倶楽部』8巻37号(雑草社,2005.06)

借用:

クロード・アジェージュ著『絶滅していく言語を救うために』(白水社,2004.03)
L.K.オブラー,K.ジュアロー著『言語と脳』(新曜社,2002.06)
大津由起雄ほか著『言語研究入門:生成文法を学ぶ人のために』(研究社,2002.04)
私市保彦著『幻想物語の文法』(晶文社,1987.04)
波平恵美子『からだの文化人類学』(大修館書店,2005.03) ほか。

投稿者 Myrmecoleon : 23:59 | コメント (0) | トラックバック